越中の伝説

大池の水神

医王山に登り、鳶岩から下の谷をのぞくと、池が見える。谷に下って池の岸に行くと、池の中に大きな岩がある。江戸時代に金澤の堤町に、小松屋藤右衛門という、金持ちの呉服屋がありこの家にお光と言え娘が年ごろになつて難病にかかつた。この大池の水をかぶりたいと襦袢一枚になつたと思うと突然、池の中へ入った。母親がお光どうしたのと泣き叫んだ。お母さま、お許し下さい。私はもともと龍神の娘だつたのです。ご縁あつて人の子となりあなたのお腹にやどつて生まれましたが父の龍王に呼ばれ池に帰りました。そして大岩が浮きあがつた。

川越えの蓮如絵像

宗善寺に川越えの御影像という、蓮如上人の絵像がある。上人63歳の時、当地へ来られ、永くこの里に仏縁を結びたいと思われ、池水を鏡として自分で影像を画いて残された。その後、高岡城が築かれた時、城主前田利長公の招請で高岡の寺へ移された。ところがある夜、才川へ安置してほしい。帰りたいと夢のお告げがあつた。住職は早速同門の道海坊と高岡へ行き、影像を頂いて帰って来た。おりしも大雨で河川が氾濫し、小矢部川を渡ることが出来なかった。老僧が現れ、川を渡ることが出来た。対岸に着くと老僧の姿が消えた。上人の化身であると伝えられている。

昭和51年9月25日発行編薯者 石崎直義氏より


蓮如に至るまでの仏教の変遷

定村武雄先生 豊田 昇先生 抜抜文

日本に仏教が初めて百済「朝鮮半島」の聖明王から朝廷に伝えられたのは元興寺縁起によると西暦538年となっている。一方、日本書記には西暦552年と多少の時代差がある。

本格的に仏教が盛んになるのは聖徳太子が推古天皇の摂政となってからと考えられるが、太子は蘇我氏の協力を得て仏教による国家の統治と治安維持に努めた。やがて、平安時代初期に入ると、従来の仏教では不満の者も増加し、新しい仏教の習得が必要であると桓武天皇が遣唐使「中国との交流使」の随員として最澄や空海を派遣したのである。二人は、ともに唐の国へ渡り最澄は天台宗、空海は真言宗の奥義を極めて帰国後最澄は比叡山に延暦寺を建立、空海は高野山に金剛峰寺を創建し二大宗派は全国に布教された。天皇は、その功績を称えて最澄に伝教大師、空海に弘法大師のおくり名を与えた。また医王山には天台宗惣海寺や川原町や神成地区には弘法清水と称する湧き水があることからも宗派の浸透度がわかる。

やがて平安末期から鎌倉初期に入ると、比叡山延暦寺で修行を積んだ高僧達が天台仏法にあき足らず新しい宗派を開くことになる。つまり、法然は浄土宗を、道元は曹道宗を栄西は臨済宗を、日蓮は日蓮宗、親鸞は法然と一緒に浄土宗の道に入るが、更に新派を極め浄土真宗を起こすことになる。親鸞の起こした浄土真宗は大衆を相手とした専修念仏思想が盛り込まれ大変な人気を呼ぶが、天台系思想を異にする一面があり、ついに北陸「新潟」に流罪となる。やがて許されるが京都に戻らず北関東に渡り、約20年の歳月をここでくらし浄土真宗の布教に専念した。晩年に至って京都に帰り一生を終えるがそれから以降親鸞の教えは細々と続けられた。ところが 親鸞から数えて8代目に当たる蓮如の活躍により爆発的に浄土真宗が発展し今日に至っている。

蓮如は応永22年「1415」京都東山大谷で本願寺7代存如の長男として生まれ若くして生母と別れ苦労するが浄土文類聚鈔、三帖和?、他力信心聞書等を書写し親鸞以来の仏道修行に専念する。文安4年「1447」父存如と一緒に東国を巡る、更に宝徳元年「1449」父とともに北陸に下向する。長禄元年「1457」父存如死去に伴い本願寺八代を継職するが、このとき異母弟応玄と継職争いが起こり叔父如乗「二俣本泉寺住職」の尽力が大きかった。寛政六年「1465」大谷本願寺が延暦寺宗徒によって破却され、親鸞影像を奉じて近江に移った。しかし、ここも安住出来ず堅田本福寺へ移る。そして宗祖親鸞の遺跡を訪ねるが、再び京都に戻る。

「応仁二年「1466」東国、北陸巡?」文明三年「1471」京都を出て再度北陸に下向し、越前の国吉崎に道場を開創した。わかりやすく布教した為爆発的に広まった。その後、蓮如は多くの弟子とともに加賀に巡賜し二俣本泉寺に草鞋を脱ぐ、更に医王山西麗を巡賜し、その足で越中に渡るが、砂子坂、土山などをえて砺波地方に足を伸ばし、やがて五代目綽如の創建した井波瑞泉寺に寄留する、そして在所を巡り講を開いて浄土真宗の教えを説法して歩いた。今まで天台、真言、時宗などの宗派を信じていた者達も転宗し浄土真宗を信じるようになった。

浄土真宗は他力本願を基とした宗派であり一心一向に阿弥陀仏という他力にすがって成仏すると言うことから一向宗ともいうが、これらの信者が集団となり地方豪族に対抗するようになり、一向一揆が各地で起きるようになる。文明七年「1499」蓮如は北陸を去り若狭、セツツをえて河内にうつる。それ以後は三科に本願寺を創建し活躍するが、更に大阪石山に坊舎を建立する。明応八年「1499」山科本願寺で死去するが八十五歳という高齢だった。このように蓮如は今日の浄土真宗本願寺派の基礎をつくつた偉大な人だと記している。

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ワープロへただつたけど見てくれてありがとう・・・