生活保護の必要性

生活保護制度を利用し不正に公的金を取得している人がいるという話を聞いたことがあります。
私は1980年、小学校4年生あたりから、母親が生活保護を申請しその制度の恩恵を受けました。

登場人物

母 38歳の時に私を出産 
実父 58歳のときに母と再婚、62歳の時に離婚
義父 籍を入れておらず母より1歳年上
前妻 父の初婚の相手 離婚前に土地と建物の名義を自分のものに変更


小学校1年の頃
義父が母親に振るう暴力。耐えかねた母は私を連れてこっそりと家を出ます。
しかし今ほど個人情報が保護されていない時代です。
義父が本気になって調べると、私の転校先の小学校、そして母親の借りたアパートを見つけ出すことくらい造作のないことだったのでしょう。
住んでいる所が見つかっては居座られ、見つかっては居座られ、
小学校4年生になるまで市内を中心に5回転校をしました。

義父からの逃亡先として、別れた実父に助けを求めたこともありますが、実父は完治する見込みの無い病気で入院中でした。
空き家だった実父の家を隠れ家として貸してくれた時期もありますが、
実父の初婚の相手がその家と土地の登記を自分のものに変更していたので(結婚してからそのことが分かって、それが離婚した原因でもある)
再婚の母は財産らしいものは何一つ受け取らず出た家でもあり
居心地の良いはずもなく、ここに身を隠していのは僅か半年でした。

私が小学校4年生になる頃、母は義父から再度逃げ、ここで最後と心に決めたアパートを見つけます。
木造2階建。そこの1階、4.5畳が一部屋のみ、トイレ共同、台所共同、風呂なし、窓はあるけど隣の建物により採光なし。
いまから思えば、よくこんな底辺の場所があったなと思う凄いところです。
引っ越した頃は、TVも冷蔵庫もなく、布団と生活に必要な食器が少し置いてあるだけでスタートしました。
母親がどううまくやったのはか不明ですが、これ以降、義父に居場所が見つかることはありまんでした。

同年、生活保護を申請し、ここから生活保護を受けるわけですが
当時の支援内容は子供の私にはまったく分かりませんでした。

翌1981年、母はパートで働きながら、このアパートの管理人となることを承諾することで
2階の管理人室へ移ることかできました。
この部屋は、8畳1部屋、6畳のキッチン、トイレ共同、風呂なし。ちょっとだけ環境はよくなります。
「親の苦労子知らず」で、少年サッカークラブに入ってしまい、活動費などえらい負担をかけていたような気がします。
お金がなかったのでサッカーシューズを買ってもらえず、公式の試合でも普通の靴でサッカーをしていました。
1年後、やはり他の子供と親のバックアップ、資金的な違いが子供心に分かってしまい、1年でサッカークラブは辞めました。
小学校6年生の頃、自転車を買ってもらったのが一番嬉しかったです。

そして、義父に居場所がバレることもなく、無事に小学校を卒業。
地元中学に入学。3年間運動部の部活動に打ちこむも、
中学校2年生の頃、いじめを経験。3年生の中頃まで続きました。
中学校では勉強も大嫌いで成績も最低。
何も楽しいことの無い中学生活でした。
小学校を転校で転々としたことは、学校→学校の期間は授業を休むことを意味し
その間2週間〜3週間は学校に行ってません。それが5回続いたことになります。
小学校の低学年といえど、基礎学力がどんどん遅れ、
ついにはついていけなくなってことが
勉強嫌いにさせたのかもしれません。


推薦で私立高校へ入学。私立ということで、金銭的負担をかけてしまいましたが、
生活保護により、授業料や教科書代に援助があったと思われます。
部活動はせず、人生で一番勉強した3年間でした。
この高校入学と同時にアパートを引っ越します。
市街地に近く、利便性もよく、高校へも自転車でいけます。
築年数はかなり経っていますが、鉄筋4階建ての1階、6畳、4.5畳の2K、ユニットバス、和式トイレ。
初めてバス付きのアパート。しかしアパートの隣が銭湯だったので、
ユニットバスは物置にして、銭湯を利用していました。
水道代、ガス代と銭湯代金は大差ないという判断です。
ただ、経済的に毎日入れませんので2日1回です。
4.5畳の部屋を初めて自分の部屋としてもらいました。
高校生になったことで夏休み、冬休みはアルバイトしました。

平成元年、高校卒業、就職。
これ以上、経済的負担を親にかけることは考えていませんでしたから
進学は最初から考えていませんでした。
工業高校への進学でしたから就職1本です。

また私が18歳になったことで
生活保護が打ち切られます。
母が月々どのくらいの金額の援助を国から受けていたかは
結局は知らないまま生活保護が終わりました。
しかし、この制度が無かったら、きっともっと酷い生活をしていたかもしれません。

就職先はバブル期だったのでたいして苦労せず決まりました。
私はサービス業を選択しました。
就職が決まったことで車が必要となり、新車ですが、軽四を4年ローンで買いました。
このローンは自分名義でローンを組みました。
頭金なし、保証人はパートの親、就職内定の段階でローンが組めてしまう、
これもバブル期ならではでしょうか?

しかし就職して2年後、バブルが弾けます。
勤めている会社が一部上場の大手に吸収されます。
しかし、これはこれで労働条件がよくなったり、
会社が大きくなる要因となりました。
素直な感想として、バブル崩壊で私自身の収入が悪くなったとは感じませんでした。

社会に出たことで市営住宅や県営住宅というものがあると知ります。
アパートよりも安い家賃で、部屋数も多いという話を聞き
市役所で申しこんで
通勤にも便利な街中の市営住宅の順番待ちすることにしました。

3年くらい待ったでしょうか、
私は24歳〜25歳くらい。
ようやく順番が回ってきました。
街の中心に位置して利便性もよく、
今のアパートの3分の2くらいの家賃で
鉄筋5階建ての3階、4.5畳、6畳、8畳と3つの部屋と4畳キッチン、ユニットバス、洋式トイレ、ベランダ、物置
もういままでのアパートとは全然違い、凄いというしか言葉がありませんでした。
また、人生で初めて部屋にエアコンをつけました。

就職から7年間が経ちました。仕事一筋で頑張った結果、
会社でのポジションも上がり、給与も上がり、
車は普通車に乗り換えることができました。
そろそろ何か趣味の一つでも持ちたいと思っていた矢先、
次第に母親の体の調子が悪くなっていき、
パートの時間もどんどん短くなっていきます。
このまま母が働けなくなってしまうと、また経済的に苦しくなるかもしれない。
私はもう一度生活保護を申し込み、
審査の結果、申請は通りました。

そしてある日、母親はくも膜下出血で倒れました。
後遺症でそれ以降、寝たきりとなりました。
病院を出されて、老人施設に入ります。
毎月、施設からは、びっくりするような金額の請求がきました。
とても私の収入ではやっていけない請求です。
しかし、生活保護を受けていたので、私は10分の1だけ払うだけで済みました。
2年後母が亡くなるまでずっと公的援助して頂きました。

この制度がなかったら私は莫大な借金をしてたり、もしくしは自己破産を申請していたりしたかもしれません。

親孝行したい時に親はなし、という言葉がありますが
フルタイムパートでずっと仕事だった母はとは、
私が学校から帰って来ても、家に居ることはなく、
夜はご飯を食べて寝るだけの生活だったと思います。
私が就職してからも、土日が仕事のサービス業の私とは休日が合わず、
私は本当に親孝行らしいことは何一つできない息子でした。
折角クルマの免許をとったのだから、母をいろいろな所に連れていきたかった。
しかし、当時の私にはそんな余裕もなかったのです。