2月の診察(2003.2.8)

今日の桐沢病院の眼科は込んでいた。
2時間以上、本を読みながら、ただ待っていた。
目に折れた睫毛が入っているとのことで、取ってもらう。
痛い感じはしていたが、単に精神的なものかと考えていた。
先月、目覚し時計で、目の中心部の見えが悪い気がした事を話す。
少し病気が進行したのかもしれない…また検査してみることに…
特定疾患の有効期限が半年延びたという連絡が届いたことを話すと、そのときにでもしますか、とのこと。
もう一つ何か聞こうと思っていたのだが、思い出せなかった。
待合室で薬を待っている時、思い出した。目薬の注し方だった。
見ても見えないし、目に当てて少し上に上げてから注しても、目に入らないことが多い。
昨年の夏の健康診断のとき、右目はすぐに光の中心を見つけられたのに、左眼はキョロキョロ動かしてもとうとう見つけられず、目に入った別の光を見ていた。検査する人に、目を動かすなと言われ、どこにあるか分からないと言うと、右の方にあると言われ、やっと光の中心が分かった。
左目の方が進行していると、泉先生も言った。
紫外線が原因なら、車を運転している時、目に紫外線が入るのは右目ではないかと尋ねた時、紫外線だけが原因ではないと言われた。
言葉としては頭に入っていても、結局、どうしようもない、いつかやってくる宿命。

薬の説明

アダプチノール…暗がりの視野を良くする薬です。
カルナクリン錠50…めまいを改善する薬です。
 末梢血管を広げて、末梢の循環障害を改善する薬です。
 更年期障害の薬です。
 網膜の循環障害を改善する薬です。
ペミラストン点眼液…アレルギーによる目の炎症に用いる薬です。
 (注意事項が書いてあるが、ここでは省略−砂田)

読んでいた本は「忘れられた思想家−安藤昌益のこと− 下巻」(E・ハーバート・ノーマン著 岩波新書)
30年以上前に買いながら、全く読んでいなかった本を少しずつ読んでいる。
自然真営道といって、自然を理想とする思想らしい。
纏めるのが難しいので、p49の一部を引用する。
「故に明徳のみ言ふ者は偏惑なり。暗迷のみ言ふ者も偏惑なり。轉のみ言ふも偏惑なり。定のみ言ふも偏惑なり。男のみ言ふも、女のみ言ふも、心のみ言ふも、知のみ言ふも皆悉く互生の備りを知らざる偏惑なり。凡て古聖釋老荘厩を始め万万の書言、悉く明徳、明心、明知のみを言ひて、而して互生の備わりを知らず。故に皆偏惑横氣にして落罪の根なり。」
ノーマンp50「自然はこれを全體として見なければならない。天地、上下、優劣などの人為的範疇を設けるのは虚偽の哲学である。」
藪という人物が現在を象徴する姿だが、昔から同じことを繰り返して来ただけだと分かる。
逆に批判的ポーズを取ったとしても、同じ穴の狢になってしまうことも同じだ。
食、耕、それが自然の基本だということだろう。
p57「『人はパンのみにて生くる者にあらず』はしばしば、物質に対する精神の第一義性を強調する證言として引用されるが、またキリストがパンを人間にとって法律よりも大切であると見なしたことの力強い證據ともとることができる。」
こういう解釈は新鮮である。
歴史の基本として、禁止されていることは、逆にそういうことが実際に行われていたことを示すと言うように、パンのこともそういうふうに捉える事ができるということだろう。
人為、利益、正義、、、現実(米と略される国)が凡て正しいという立場からは、同じことが繰り返されるだけだ。
力のあるものに、今がチャンスとすりよる姿も、昔から同じだ。
自立とか、独創性とか、言葉を並べたって、本性において、何かにすがる。
生きるということは、厳しい、本音は虚しい。
今日はp86まで読んだ所で、診察に呼ばれた。

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