錯視(2003.3.3)

エルムハマネクという電報を受け取ったのは、34年前の3月3日、4日の試験の結果だった。
声をかけられてメーリングリストに参加することになった。
そこで錯視ということが話題の一つになっている。
私のリンクのページに錯視に関するものを二つ載せておきました。
メーリングリストに載っていたものです。

何か心理学の問題として捉えられているようです。
自分に見えていないところがあるのに、そうとは気付かない。
見えていたものが消えたと感じるということは、その部分が透明になったと感じているのです。
見えていない部分が、白とか黒に塗りつぶされていると感じられるのなら、見えていないと気付く。
透明になるということは、その存在を前もって意識していない限り、存在しないものとして視覚的にあるということです。
その部分が見えなくても、背景全体はつながっていると感じられる。
視野の検査では、光が消えていくというふうに、見えていないことが、はっきり分かる。
事実は視野検査の通りなのだろうが、普通に見るときは、全てはつながっているように見える。
これも錯視の一種と思われる。
身体的な、つまり病的な錯視。衒学的対象にはならないだろう。
緑内障、糖尿病網膜症も、網膜色素変性症と同じだろう。
何か失敗をし、検査を受け、指摘されるまでは、基本的に見えていないところがあるとは気付かない。
興味本位な研究も何かに役立つかもしれないが、視覚的に切実な病気の研究もしてもらいたい。
早期発見につながるような成果が望まれる。

(3.4)2月中旬、霧の朝、家から150m先の交差点で一時停止し、何もいないと思い発進すると、右手から警報音。
右を見て、止まるよりそのまま通り抜けた方がよいと判断して、通り抜けた。
その2、3日後、快晴の朝、同じ交差点の手前30m程、もう少しで一時停止しようと考えていた。
突然、交差する道の右方向からきていたらしい大型ダンプが目の前に見えた。
立山連峰の写真で一番手前に写っているのがその交差点(このホームページであちこちに何枚かある)。
家から東、つまり立山連峰方向に進む−交差点まで視界をさえぎるものは何もない。
右目も、少し進行が速い左目の症状に追いついたのかもしれない。
右斜め上には穴があったが、右横は消えていく穴はないと思っていた。
目の中心でしか、細かいことを見ることはできない。
その周りの多くの部分には、1年前の検査で、幕が出来てしまっているのは分かっている。
中心に向かって進行されては困る。
下のほうは異常に良く見える・・・普通は、これが正常なのだが、、、
薄暗いと遠近感がハッキリしない。スピードに対応するのが難しい。
光の変化への対応が苦痛である。
どんな人生を送ってきたとしても、避けようがなく、確実にやってくることが二つあるということだ。
一つは死であり、もう一つは視野の喪失である。
作家として、何ものかになろうという野心は、無駄だろう。中野先生でさえ、楽ではないのだから。
麻布2枚で乾漆作品が安定的に作ることが出来る方法を確立することが自分の課題だろう。

(3.5)朝、R8の片側二車線のところで、右隣の車線を走る車を見ると、消えるか、ほとんど見えない感じになる角度があった。
何か、例えば、遠くに自転車が目に入ると、それに捕らわれて視点を動かすことが出来なくなる。
こんなことではいけないのだが、とにかく、人より視点を頻繁に動かすようにするしかない。

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