憂陽(2003.3.21)

西方浄土という言葉があるように、夕陽は神々しい。
今日は、デジカメのページに載せたように、雲に隠れて優しかった。
今週になって、とも必ずしもいえないが、夕陽が耐え難い感じになったと感じるようになった。
真夏の太陽も、夕陽も好きだったが、肉体的に明かりが苦しいものに感じられるようになった。
憂陽と呼ぶしかない。

JRPSから送られてきたメールを印刷し、そのまま放っている。
少しずつ読んでいるのだが、網膜色素変性症はまず夜盲として現れるらしい。(そういう人の方が多いということ)
桿体(暗いところで光を感じる)に残存する視細胞と網膜電図との関係は、網膜電図の振幅logと比例するそうだ。
logとは何だったか?何とか進法(2進法、10進法など)の指数を整数で表したはずだ。
多分、真と呼んでいた数になるには、logの底(と呼んだはずだが?)を何回掛けるか(指数)を示していたはずだ。
底が大きければ、同じ指数でも、残存視細胞の変化が大きな影響を与えるということになる。
錐体(明るいところで光を感じる)の方が、大きな変化を示すそうだ。
病状が悪化すれば、つまり、明るいところで光を感じることが困難になれば、極端に視野が狭くなるということだろう。
西日が辛くなったということは、どういう段階なのだろう?
もう一つの問題は、どのあたりに視細胞が残っているかで、個人個人かなり違うだろうということだ。。

米と略される国の、藪なる人物がネオ・・4人組に支えられ、民主主義を連呼する。
民主主義とは、現在では、カジノ資本主義のことである。
現実が全て正しい、米なる国が全ての基準だという立場である。
あさましい日の本の国だと主張する人物は、独創性・伝統文化と言いながら、早期の英語教育の必要性を述べる。魂を売ったものに独創性があるわけがない。
同じ人物が、計算をするとき、筆算するか、パソコンで一気に計算してもらうか、の違いしかないのに、人間として後者の方が優れていると錯覚しているのが、米の考え方だ。
機械として優れているのは明らかだが、人間としては、全く進歩がない。
数学でもないのに、二分法で解釈しようとするのは、まやかしである。
原理主義という正義=悪の思考法である。
「チボー家の人々」の戦争の捉えかたと、正義の代理人の頭脳とどこが違うのか?
常に相手が悪い、自分たちは正しい。
正義を叫ぶものは、抽象的な数字を並べて、戦争をするほうが被害が少ないと説明する。
平和を叫ぶものは、個々に生きている、具体的な人間の生活を大切だと考える。
目先の独裁者と、巨大な王、ともに生活にとっては、悪魔なのだ。
米や藪は、自国のことだけを考えている。
真の支配者なら、支配していると感じさせないで統治するからである。

こんなこともしているそうだ。

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