悩みとは(2002.11.5-15)
流れ行く我は水屑と成り果てぬ君柵となりてとどめよ(道真)
親戚のA君の人生を考える。
キリストと同じ誕生日、22歳を目前に人生を終えた。
人の世の悲しさは、ある極点に達した時のみ対応してあたる事だろう。
その時、他人の有り難さ、優しさを感じえたとしても(不可能な話だが)、もう遅い。
孤独は自分で引き受けるしかない。
ここに大きな問題がある。
誰も自分の孤独を察してくれない、察してもらってもどうしようもない。
それでも誰か特定の人に認めてもらいたい。
極点に達する前に存在を認めてもらいたい。
こうした事は、人の人生を決めはしないが、栄養剤にはなる。
栄養失調になったとき、どうすればいいか。
無限の優しさは、逆に負担になるかもしれない。
しかし、曇りのない心にどうしろと言えるのか。
無意識の内の比較、曇りのない心の持つ最大の欠陥。
誰しも、自分の感性で生きるしか出来ない。
自分の人生とそれ以外の人の人生とは、決して一致することはない。
追えば追うほど遠ざかっていく。
自分以外の人の気持ちを寸分違わず理解することは出来ない。
休養が必要な時であっても、自分を完全に理解してほしいと思っても無理な話になるだけだ。
自分のしたいと思う事に出会ったと感じて初めて、自発的に動き出す事ができる。
外部より水屑にされてしまったと感じている時には、原初的な存在感が必要だろう。
悩む事は、生き方が狂っている事になるのだろうか。
例えば子供と約束し、それまで我慢させ、いざとなって約束を破れば信頼をなくすだろう。
そういうふうに狂った人間関係をどう修復すればよいか分からない。
だから私の方針として、そういう狂いを生じさせないように対応することを前提として置く。
これが決定的な事態をもたらすと感じる時だけの話だが、、、
あまり立派な親ではないので、指示を与えるよりは心配しながら見ているだけのことの方が多い。
自分で何かをするときは、その責任は自分にあると話す。(親として、責任を取る事は出来ない)
悩みの悪循環に陥った時、具体的なことで悩むのとまったく別の様相を呈するだろう。
たぶんここに青春の問題がある。
自分の眼が無自覚の内に視野を失っていくらしい時、将来何ができるのかと不安になる。
頭の中で考えていると、それを見つけるのが自分の行きていく道だと思いついた。
しかし、今の所それは言葉の上だけの思いで、実際にはそう生きていこうという意欲は全くないのが本当の所だ。
新聞の広告欄に日野原先生の本がよく載っている。19歳の若者が人はなぜ生きるかと問うたのに対し、人は自分で望んで生を受けるのではないから、何故と問うのではなく、どう生きていくかを見つけていくべきだというように答えていた感じがした。(間違っているかもしれないので、その内訂正するかもしれません)
結局、考えるだけなら、同じような結論になる。言い換えれば、どう生きるか見つけるしかないということだ。
そうするしかないと分かっても、そう出来ないのが心の病というものであろう。
物事を肯定的・積極的に捉える考え方が大事だと言われる。
皆がそうすれば、肯定的と言うのが普通になるなんてつまらない事を言おうとするのではない。
皆がそうすれば、今積極的、肯定的生き方が出来ているものが敗者になる可能性もでてくる。
必ず比較があり、相対的にならざるをえない。
敗者に支えられて勝者はあるのである。
しかし、勝者は、敗者を意識しない。上から余裕をもって眺め、仁を施すのである。
藪・統領のように。
自分に適した生き方が見つかるまで、青春の悩みはあるだろう。
その前に自らの存在の不安・闇を見つめ続ける必要がある。
昔読んだ「チボー家の人々」や「エデンの東」の世界である。
歳を加えるに従い、悩みは具体的なものにと変わっていく。
勝者になる必要はない。暗く沈む事も大切である。
何時かはこれが自分の生きる道だというものに出会うはずである。
その場合、出会うまで何もしないのではなく、何でもよいから始めてみるのも一つの方法である。
中に入ってみれば、外から見ているだけでは分からない世界があるかもしれない。(−11/15)