23 暗nuit;ennui (2004.1.10)

今年最初の土曜診療だろうから、多分混んでいるだろうと考え、少し遅めに出かける。
9:20am頃受付で25番目、予想より少ない。
11時を過ぎても待っているだけ。
読書に疲れ、何もしないでいると、11:20頃やっと呼び出し。
前の人は緑内障らしく、視野検査の話が聞こえてきた。
視力と違い、視野がなくなっても気付きにくいことを話していた。

自分の視野でいえば、上がほとんど無くても、40°あたりに帯のように視野が残っている所為で、40°辺りまで全て見えている気がする。
鏡に映る姿が左右は逆になるのに、上下は逆にならないのは、脳のどこやらで上下だけ補正している為とかいう話だ。
視野の場合も、脳が足りないところを補ってくれるのだろう。
病気で無い場合は非常に有り難い助けだが、病気の時は気付かず、手遅れになる原因になる。
視野が欠けていると気付くのは、中心から周辺まで放射状に視野が全て無くなっている時ではないだろうか。
その線というか、幅を補う視野が無い場合に、初めて気付く可能性がでてくるのではないか。
そうとばかりもいえないだろうが、かなり損傷を受けない限り、気付かないのは確かである。

2時間ほど暖房の下で待っていたので、少し目が痛くなってきた、まばたきはしていたが、、、と話す。
雨の降る暗い道は、光の反射で見辛い。乾いている日は、まだましだと感じると話す。
福岡からの4キロあまりの県道が狭く、運転が苦しいことを話す。
タクシーの利用は出来ないだろうかと言う。
交渉で少しぐらい割引にならないか、手帳の申請が必要なら言って欲しい、、、
何か起きてからではなお悪い、、、
収入の何割かをタクシー代にしてまで行く気にはならないし、、、と心の中で思う。
夜の暗さ、その中での光の乱反射、夜の車庫入れ、、、
段差の境のハッキリしない階段、明るい時でも消える左斜め前、、、
先ず運転を止める時期が一番近付いている。
漆の仕事は、まだ大丈夫だろうとは思う。
手で触れれば、見落としはカバーできる。

待ちながらの読書は、「神経症学総論」(「精神分析入門」フロイト)。
大抵はこの病院で読むだけで、なかなか進まない。頭もついていきにくいが、、、

p308-309「現在は戦争によって特別よく発生する病気、いわゆる外傷性神経症は、私たちが今扱った神経症患者が示すこのような態度にいちばんよく似ている。・・・外傷性神経症では、外傷を起こした事故の瞬間への固着があきらかにその病気の根底をなしている。患者は夢の中で、きまって外傷の状況をくり返す。・・・
私たちが精神過程の経済的な見方とよんでいるものへの道を指し示す。・・・精神生活に短時間のうちに刺激が高度に増し、この刺激を通常の方法で、放出し、除去するのに失敗し、その結果、エネルギーの分布に永続的な障害が生じたとき、私たちはこれを外傷的とよんでいる。
この類推から、先に述べた神経症患者が固着されているように思われる体験もまた、外傷的と名づけていいのではないかという気になる。・・・」

p314「・・・私たちがある症状にぶつかったときはつねに、その患者の心の中に症状の意味をまさしく含んでいるある無意識的な過程が存在していると考えてよいと。しかし症状をひき起こすには、この症状の意味は無意識であることが必要である。症状は、意識的な過程からは作られない。その無意識が意識となるや、その症状は消え失せてしまう。・・・」

p320-321に、人間が受けた科学による侮辱として、コペルニクス、ダーウィンなど、、、
精神生活における無意識の強調(フロイト)、、、

自分が鈍感なのかもしれないが、人間解釈の説はいろいろ出てきても、100年前より人は解決能力を高めたのだろうか。
自分に都合の良いように考えて生きられる者もいれば、心を病む者もいる。
意識的な世界しかないのなら、心優しい者が病むといえようが、そう単純でもない。
宗教も自分に都合の良いように解釈し、正義漢=被害者面を強調するばかりでは、壁を作っているとしか言いようがない。

12:10頃支払いを終わって病院を出たが、待合室は人であふれたままだった。
砺波郵便局ポストに新年会、・・犬協会への返事を投函。

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