治療とは(2002.12.18)

延命治療をするかどうか、ということが問題になる事がある。
普通の、病気を治す治療とどこが違うのだろうか。
基準は、現在の症状が現在の医療水準で治すことができるかどうかというところにあるのかもしれない。
治療法が無いということと、生死の境にあるということは必ずしも同じではない。
同じことを意味する時もあるし、そうでない時もある。

(12.23)予想できない事ではなかったとはいえ、その日が突然やってきた。
そして何時の間にか時が過ぎていた。
15日(日)午後3時頃病院へ行くと、口から少し泡のような痰をだし、目が上に移動し、白目に近くなっている。
看護婦さんを呼び、痰を取ってもらう。まだ様子が変だ。
熱があり、血圧が低下しているとのことで、数人の看護婦と、医者が駆けつける。
その晩からまた母が病院に泊まることになる。
16日の夕方にくると、取った痰が溜まる所に赤いものが溜まっていた。
胃からも赤いもので出て、溜まっていた(赤黒い)。
17日の夕も同じで、輸血が始まった。
顔色は少し良くなっていた。
18日の夕は、胃からの出血は止まっている感じだった。
7時ころに取ってもらって、喉がゴロゴロなるのはやんだが、赤いままだった。
血小板輸血中。
19日午前2時20分頃、電話の音。予感、、、
すぐ病院に駆けつけたが、自発呼吸ができなくなっているとのこと。
体の内部で部分出血が止まらなくなり、肺に血が溜まっている。
決断は二つに一つしかない。実際、決められない。
半日苦しむかどうか、、、それをやめた以上、心は動かない。
11月のときに比べれば、順番通りと言うしかない。
20日通夜、21日葬儀。享年とは、母親の胎内に宿ってからの生を言うそうだ。86歳。

県庁OB会会長の弔事があり、その資料が親戚から廻ってきた。
詳しい職歴を初めて知った事になる。
大正6年4月24日、砂田喜作、みなの第3子、長男として誕生する。(姉二人は夭逝)

旧砺波中学卒。

      故 砂田 正喜 氏 略歴
昭和12年 6月 富山県雇 経済部経済更正課勤務。
   14年12月 富山県書記 経済部経済更正課勤務。
   17年 7月 富山県農林主事補 西砺波地方事務所経済課勤務。
   19年 4月 臨時召集により東部第6部隊に入隊。
   21年11月 召集解除復員。
   23年 6月 西砺波地方事務所産業課兼農地課勤務。
   25年 5月 西砺波地方事務所総務課勤務。
   28年 9月 西砺波地方事務所総務係長。
   29年10月 農林部林務課勤務。
   32年 9月 自治大学校第1部第9期研修生として派遣。
   33年 4月 福野土木出張所庶務課長。
   34年 4月 東砺波社会福祉事務所援護課長兼庶務課長。
      12月 人事委員会事務局に出向。
          富山県人事委員会事務局審査係長。
   38年 4月 職員係長。
   40年 4月 事務局次長代理、総務係長(職員係長兼務)。
   41年10月 事務局次長。
   42年 3月 総務課長。
   43年 6月 知事部局へ出向。
          総務部相談室長。
   45年10月 砺波県税事務所長。
   46年10月 公害部交通安全課長。
   48年 7月 土地対策室参事。
   49年 4月 退職  【県職員期間36年10月】

昭和62年(1987年)春 勲5等瑞宝章受章。

 

*自治大学校、事務局次長、相談室長(初代)などは覚えている。
 砺波県税事務所長の時は、富山市での勤務要望を出していた。
 退職前、東京で、定年までいるか、肩叩きで辞めるか相談してきた事がある。

弔電では、個人的なものが二つだけあった。
私が1993年に日本伝統工芸展に初入選したときに、父の知人、友人に案内してもらった事がある。
10人あまりから、見たという返事が来ていた。二人ともその中の人だ。
自治大学校のときの本橋さん(乾漆食籠の作り方を知りたいというので、紙に書いたのを父に渡し、送ってもらった。妹が短大時代にお世話になった人でもある)。
旧砺波中学の同級生の谷敷寛さん(飛び級で旧四高、旧東京帝大法、、、通産省、、、、、、  祖母大谷トモの姉、新西の伯母ちゃんと呼ばれていた谷敷ユキさんの子で、母の従兄にあたる)。

(12.24)今まで通りの生活が始まった感じがしていた。
帰り、今まではR8を直進して病院に通っていた交差点の直前で、身体の内部に隠れていたものが突然動き出した。もう行く事はないんだ、、、用事があるときや雨がひどいときを除けば、5月12日(日)からほぼ毎日行っていた。その前日に容態が悪くなったと聞いてから、3月21日の入院以来、やっと行く気になったというところだろう。
別に話すこともないし、パソコンで取り込んだ昔の写真をプリンターで印刷(A4)し、見せたりしていた。自分の妻子は分からず、自分の両親と昔の家だけが分かった。その内、両親だけに、見せると頷いてみせるようになり、更に何の反応も見せなくなっていった(10月か11月頃から)。花の写真なんかには、それなりの反応があった。
多分6月の終わり頃から、余り似ていない似顔絵をノートに画きはじめた。目の表情と口の状態に主に注目した。目に力があるか、ぼんやりしているか、、、
元気に見えたときの顔(病院でのノートが見つからなくなったというので、思い出して書いてみた。1/11に。)
男は医者に見えるのか、丁寧な言葉でなにやら喋ったりすることもあった。
8月19日夕には、痰が溜まりすぎ、泡を吹くくらいゴロゴロやっていたのが、突然静かになった。おさまったのかと思ったが、息をしていない感じがしたので、すぐ看護婦さんを呼んだ。少し前にも頼んでいたので、すぐに来てくれた。目が横に移動し、完全に窒息していたが、痰を取ると息を吹き返した。看護婦さんがひどかったですかと聞くと、ハイと大きく返事をした。大丈夫ですかと聞くと、腹が立っていたのか、返事もしなかった。
軽くなったり、悪くなったりを繰り返し、最期をむかえた。
本人は何を見、脳の中でどう処理していたのか、よく分からない。生きていることを当然のこととしているのは分かった。
寝たきりであったが、床擦れは全くできなかった。病院でこまめに向きを変えてくれたおかげである。

(12.25)画いた似顔絵を見せると、ウンウンと頷いたり、首を横に振って気に入らないことを示したりした。
スバラシイと言ったこともあるが、どこをそうだと感じたのかはよく分からない。
耐えながらも穏やかな表情で世話に来て下さった親戚の方の息子さんの誕生日にあたる。
生家の隣の、父の小学校時代の同級生が意識不明になったという話が兄より伝わった。そこの息子さんにはこの前から非常にお世話になった。

(12.28)隣の方は、かなり回復されたそうです。
砺波平野の散居村にある家にしては、家の場合、他の家とはかなり違っていた。
父は農作業を全くといっていいほどしなかったので、そういうことを通しての交流はなかった。
換言すれば、接点は普通の家に比べて、かなり少なかった。
山羊や犬に接する時も、どこか腰が引けた感じだった。
clumsyと言うところだろう。
私は18才で生家を離れたし、記憶に残る交流はあまりない。
今まで半年ほど、病院に通って、少し接する機会があっただけだ。
父の方が、私を誰か分からなくなって1、2年経ちますが、そういうことを理由に寂しいと会いに行かない、という気にはなりませんでした。私にあまり自分を強調する精神性がないからでしょう。
ラジオ講座をよく聞いたり、リーダーズダイジェストを読んだりしていました。
病院でも、キチンとしていたがったり、見習うべき所はありました。
性格的に完全に公務員向きの自分が、そういう道を目指さなかったのは、父が余興の練習で謡いを習いに行ったりするのを見ていたからです。いまだに余興をする気になりませんが、私の浅はかだった所は、民間でも同じだと気付かなかった所にあります。JRPSの会報がメールで届きますが、カラオケで楽しんだとかいう記述が目立つ。目が見え辛くなったら、音の世界しかないのかもしれないが、強要された歌にどんな喜びがあると言うのだろう。
いつもの、話が飛ぶ文章になるが、点字というのを誰が決めたのだろうと思う。北陸中央病院のエレベーターに、階数を示す点字が打ってある。4階と6階を示す関係と、2階と3階を示す関係は対応していない。10進法の感じで考えるなら、左を一の位とするなら、その横は十の位ととるのが普通ではないのか。
どこに点があるというより、無いことを感じるのが、読み取りのコツかもしれないと思ったりもした。

(12.29)隣の方の見舞いに10日振りに病院へ行く。
現実が変わってしまっていることにあふれてくるものがあった。
窓に映る、歩道を歩く自分の姿は同じ筈なのに、向かう先は違っている。
4Fのボタンを押す。
階は違っても同じつくりなので、不思議な感じがする。
顔色はよいが、かと言って、健康なわけでもない。
まだ誰か分かるようだった。
帰りのエレベーターで、下に下りるボタンを押したのに、4Fでもう下りるようになっている。
10日前までの、5Fにいたのと錯覚していたのだ。
結局、自分を通してしか他人を意識することができないということだろうか。

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