ウズベク共和国コーカンド市

平成5年7月30日付けの「ソ連抑留死亡者名簿に関するお知らせ」が母宛てに届いている。
厚生省社会・援護局業務第一課長
富山県厚生部社会福祉課恩給援護係
八尾 上野・・

1埋葬地 ウズベク共和国第3670特別軍病院墓地・コーカンド市

2氏名  オ(ア)ヤ タツオ

3生年及び階級 大 11年生 上等兵

4死亡年月日  昭和22年3月4日

11月末頃、八尾の・・・という話を聞き、母に尋ねた。
12月になった頃か、上記の書類の入った封筒を渡してくれた。
それを1月26日になって、やっと地図で調べてみた。
地図は下に載せておきました。
カブールの北の方にバーミヤーンの地名も見える。

 

インターネットで検索したのをまたコピーさせてもらう。

来日中のアジモフ・ウズベキスタン副首相から突然オフィスに電話が入ったのは7 月1 日だった。
「急ですまないが、7 月2 日中にどうしてもお会いしたいので、時間を取ってほしい」という。
アジモフ副首相とは、9 6 年に初めてウズベキスタンを訪れた時、中央銀行総裁を務めておりインタビューしたほか、3 〜4 年前に来日した際にも当時の日本輸出入銀行のシンポジウムでお会いしたことがあった。
7 月2 日午後1 2 時半、約束場所の帝国ホテル1 0 1 0 号室を訪れると、アジモフ副首相はホテルに向かっている最中だといい、代わって2 00 1 年秋にカリモフ大統領とインタビューしたときに同席していたガニロフ対外経済関係担当大臣としばらく歓談した。すると、まもなく小柄で人懐っこいアジモフ副首相が部屋に入ってきて、約3 0 分間にわたり話し合いを行った。
アジモフ副首相は、当協会の活動と支援に謝意を述べた後、「ウズベキスタンに連れてこられた日本人抑留者のお墓が完成し、桜の木1 0 0 0 本も植えられた。
イスラムの国で、ほかの宗教の国のお墓を作ることは普通あり得ないことだが、私たちは日本と戦争したわけではないし、ナボイ劇場を建ててくれた日本人はじめ、ウズベク各地の収容所で旧ソ連時代に働いてくれた日本人との縁を大事にしたいと考え、日本と共同でこの事業を行った。ついてはこれらの共同事業について多くの日本とウズベキスタン国民に知ってもらいたいと思っているので協力してほしい」という提案だった。
そこで私は、9 6 年と2 0 0 1 年の2 度にわたってナボイ劇場や抑留者の話を軸としたテレビ・ドキュメンタリーを制作したこと、今後も新たな構想があれば協力することを伝えた。
そして早速
TBS テレビの番組とNHKで放送された番組を帰国直前の翌日、事務局の柿谷さんから届けてもらい、まずそれを見た上で、提案してほしいと述べた。
アジモフ副首相は、「両国のつながりは、結局人と人との関係だ。過去の歴史に抑留の出来事があり、現在それらの人々のお墓や記念碑を収容所各地(1 3 ヶ所)に建設したことは、おそらく両国の関係によりよい交流を生むことになろう」と喜んでいた。今後、このプロジェクトがどう進むか楽しみだ。(嶌信彦記)

今回の計画に際しては、駐ウズベキスタン日本大使中山恭子様、御夫君の中山成彬様はじめ各界の皆様の御援助、福島県ウズベキスタン協会の皆様特に理事長の穴戸利夫様、会長の伊藤様、会員の皆様には限りないご努力を賜り、御礼致します。私自身、このように早期に実現できたことは思いもよらぬ事であり、各界の皆様と現地のウズベキスタンの皆様のご協力に深く感謝しています。
さてこの所、4 回に亙るウズベキスタンへの訪問で、かつてのベカワード、チュアマの抑留時代の事々が、折に触れて鮮明に蘇って参りました。しかも今回の旅行では、戦争当時同じ原隊(兵隊として所属した部隊)のひとが、佐々木さん、永見さん、私を含め3 人も集まり、共に墓参が叶いました。
人間の記憶とは不思議なもので、5 0 数年前のことであるにもかかわらず、当時の仲間と話していると、昨日のことのように鮮明に思い出が辿れて参ります。
我々日本人が1 9 4 5 年8 月以降、シベリア、中央アジアなど旧ソ連各地に強制抑留され、3 〜5 年の期間を旧ソ連全土で建設作業に当てられました。
その間、1 9 4 5 年秋から1 9 4 6 年春に我々日本人は、極端に変わった環境、特に粗悪食料、寒さに対しての無防備、全く変わった住居設備に、多くの犠牲を出しました。
日本人犠牲者は今も、ウズベキスタンの1 4 〜15 ヵ所にのぼる日本人墓地に眠っています。
2 0 0 0 年、日本ウズベキスタン協会の主催のウズベキスタン訪問で、タシケント・ヤツカサライで私達元抑留者は初めて日本人墓地に参拝することができました。この時我々は、これまで福島県ウズベキスタン協会がアングレン、タシケントのヤツカサライ墓地整備を完了されたのを知り、感謝の念に打たれました。また、この時是非にも、残された各地の墓地の整備を自分の心に誓いました。
やがて福島県協会、理事長穴戸さん、日本大使中山恭子様のご意向を伺い、是非早期に実現すべく、計画が開始されて今日に至りました。
2 0 0 2 年5 月に各地の墓地整備と顕彰費の建立が為されて、日本人の墓参団は5 月2 4 日に出発しました。
まず、タシケント市、ヤツカサライ、チルチツク市、ボスタンデクス市、タバクソイ、またアングレン市へ、タシケント市のヤンギュリとハムジェンスキイへ、ベカワード市の2 ヶ所の墓地へは全員で参拝。
アンデシャン州のチュアマとユージニヌイ、アラムシュクへ、
コーカンド市の墓石への参拝を致しました。また別動隊はブハラ市のカガンへの参拝を致しました。
また、各地に建立された鎮魂の碑と抑留者顕彰費の除幕式を合わせて行いました。
今回の墓石整備と顕彰碑の建立が殊の外早期に完成をみられたのは、現地のウズベキスタンの皆様の並々ならぬ、ご努力とご奉仕があればこそと、ウズベキスタン各界の皆様、各地の皆様に厚く御礼を申し上げます。
また、我々元抑留者のみにては、とても実現は叶わぬ事でした。ご厚情を賜りました日本国内の各界の皆様にも、厚く御礼を申し上げます。
2 0 0 2 年6 月
日本ウズベキスタン協会会員 元抑留者加藤金太郎


タシケントの東南東、約200km。薄紫色のところが「コカンド」

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