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大谷家宛ての、平野さんからの手紙がシベリアに届き、裏に辰男伯父の手紙が…

平野みつさんの手紙

御手紙拝見致しました 承れば御叔母上様には中風にてお目がお悪とかとの御事 さぞ御不自由の御事と御察し申上ます 追々と気候もよくなれば御全快の御事と存じ上ます 私共もおかげさまにて無事に居ります故御安心下さい 馨も春休みにお伺い致すつもりで居りましたが相変ず汽車に乗るのに前日から待って居って漸くにして乗れるとの事ですからとてもとても一人では行かれません 福野町から毎月二回位往復して居らるヽ方が命が二つあれば行きなさいと申されますので心配で出す事が出来ませんので失礼をいたしました お手紙の様子では供出もなかなか大変との事 東京ではメリケン粉とトーモロコシ粉で十日分お米が七日ピース九日食パン一日で四月分の配給を受け漸く遅配解消との事であります 毎日粉ばかりでお米はたまたまにしか食べられませんがいたしかたありません
お便りの度に辰男様がお帰りになった便りかと胸をおどらせながら読んでは又さうではないと馨と二人でがっかりして居ります 先日のお便りで辰男様のお嫁さんがお出でになって居られるとの事さぞお賑やかな事でございませう 人の増す事はとてもうれしい事でございます 先達私の娘の家に遊びに来られた方が申されましたが何の便りもなく突然にソ連から帰って来られた方があると申されましたからその内にはお帰りになることでせう お楽しみにしてお待ちなさいませ
今年は暑中休暇にもお伺ひは出来ませんね 年末でなければお願ひも出来ませんでせうね まあまあそれまで何とか生命をつないで行きませう お互様に体に気をつけて働きませう

皆ヽ様お体御大切に お叔母上様ご老体一層御注意下さいませ

筆末ながら道明の大野様へよろしく御伝へ下さい

                 さようなら

四月二十八日

                  みつより

御叔母上様 とも子様

 

*「叔母」となっているので、どうしてなのかと母に尋ねた。
大谷元には、姉がいたのだそうだ。「かわべ」というところへ嫁いだそうだ。(川辺or河辺?)
その子が、平野みつさんで、その子(息子)が平野馨さんだそうだ。

明治・昭和の古い写真 (2004.8.21)

*この場合の「道明の大野様」は、大谷元の娘を養女に出していた方の大野さんだろう。
元の妹が嫁いでいたそうだが、跡継ぎに恵まれなかったらしい。
*流れるような草書で書いてある部分は、正確に読み取っているか、よく分からない。
話の流れや、別の場所での字と比較して、推定しているところがある。

 

 

 

 旧ソ連による抑留―ロシア資料(2009.12.5)

永く便りが出来ませんでしたがお祖母さん始母さん周子東の弘子皆お変わりないでせうか さぞ色々苦労多き事と思ひます 僕は死すべき命を生き長らへてソ連にて暮して居ります お父さんの霊には常に護られている様な気がします
ソ連の待遇は大変丁寧ですから安心して下さい
正喜兄は如何 返事を受取る日が楽しです さよなら

最後の手紙文

*平野さんの三枚目の便箋の裏に、上下逆の方向から鉛筆で書いてある。
今までの手紙の文字と違い、かなり乱れた字になっている。
「さよなら」という表現は、1の二つ目の手紙(一等兵になった)と、ここでと二回しかない。
2の手紙(小説のような)でも、使ってあった(2002.4.13)。
*どのようにして、大谷に届いたか(戻ってきたか)不明である。
母の同級生に、道明の上田さんという方がいて、その叔父さんがシベリアから色々な遺品を届けてくれたらしいそうだ。
その中にあったのかもしれない。祖母は、、、
*2002.5.12「正喜兄」と呼ばれている、私の父は明らかにその晩年にいる。55年前に治療を受けることなく、亡くなったのだろう。いつかは死ぬということをどう捉えればいいのだろう。

2002.12.19 父、永眠。(2003.1.17作成)

ウズベク共和国コーカンド市(2003.1.26作成)

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