乾 漆 彫 刻

更新日 04/02/14

2003年末にH氏から、「近代(明治以降)日本における乾漆彫刻の歴史や、特に白嶺と乾漆との関係を示す資料があればご教示下さい」というメールを頂いた。

「残念ながら、私には分かりません。
私の乾漆の知識は「日本の美術 乾漆仏」(久野健 至文堂)に主に依存しています。 読んでもすぐ頭から抜けて行きますので、少し読み返してみました。
p61に、脱乾漆像から木心乾漆に変わった理由(推定)が書いてあります。

次のページから木心乾漆像の説明になっています。
p85からの阿修羅像を再現された小野寺さんは
・・・ 
インターネットで検索すると、 富山県との関係では、
八尾町の「おわら踊り」
http://www.town.yatsuo.toyama.jp/YATSUO/SIRYOKAN/SIRYOU/13_4.html
松村外次郎が内弟子となったようです。
http://www.town.shogawa.toyama.jp/kyoumuka/bijyutukan/jyosetu/nenpu/nennpu.htm
庄川美術館には、松村の作品は展示されていますが、 吉田白嶺関係の資料があるかどうか分かりません。」
と答えざるをえなかった。

日展の彫刻に乾漆で出品している方がいるとNHKで言っていた気がして検索した。
パソコンにコピーしたあと、名前を思い出せないまま、第25回(1993)と第29回(1997)の図録をみた。
足首とかがふっくらした感じの作品が、乾漆かなと感じさせた。
名前を覚え、コピーしたのを調べてみた。一致していた。
杉村尚氏(評議員)

本年度のウイクリーの表紙の作品は、「考える」と題する乾漆像です。
乾漆とは、一定の厚みになるまで漆と麻布を張り重ねてゆく技法です。東大寺の法華堂の諸尊に天平時代の乾漆像の傑作を拝見することが出来ます。勿ち漆は日本の風土に適しているのです。而し現在はあまり彫刻の素材として使用されていません。扱い方のむつかしさと、日時が大変かかるから、めんどうな仕事と敬遠されるのかもしれません。私は、漆の日本独特のしとやかさを発見しました。それ以来漆の研究を続け現在、等身大の造像も出来るようになりました。漆は永遠に生き続ける素材であると、私は信じているからです
という解説がついていた。

日展

サイト

2004.2.14書棚を見ていると、日展の図録があと3冊あった。
第20回「青春の風」(1988)
第22回「夏の朝」(1990)
第32回「プールサイド」(2000)
これだけの表現をしていたのかと驚きました。

サブロウ コスギ(小杉三朗氏) 1939年生れ

サブロウ コスギ SABURO ホームページ
■サブロウ コスギ(R.P ギャラリーあーるてんぴい オープン記念)色

関 頑亭 (せき がんてい),1919(大正8−

東京都国立市生まれ。本名、関保壽。昭和8年、澤田政廣(文化勲章・文化功労賞・芸術院会員)に師事。昭和26年に、東京中野宝仙寺富田教純師に密教の伝法を受け、昭和30年、宝仙寺山門の仁王尊像を制作する。その後昭和63年、宝仙寺の弘法大師丈六脱活乾漆像の制作に着手し、4年後の平成4年ついに完成させた。脱活乾漆という技法は、奈良時代から鎌倉時代まで続けられた伝統的な技法で、粘土で原型を作り、その上に紙、麻布を貼り、漆で肉付けをした上で、中の粘土をすべて取り除き、更に漆で造形していく方法である。非常に軽いが、極めて堅牢性に富む。
八戸市美術館 作家略歴より

宝仙寺 文化財をクリック。「御影堂と弘法大師像」

山本豊市  1899−1987

東京国立近代美術館

三彩 1976年 特集I: 山本豊市の乾漆彫刻

小柳津三郎 (明治四十−平成十二年、愛知県生まれ、昭和十九−六十三年まで井波町、富山市在住)1907−2000

昭和19年に小柳津三郎が井波町へ疎開する。同23年に富山市岩瀬に移り住んで親鸞や釈迦像のほか、馬場はる、大島文雄ら、同地ゆかりの偉人たちの胸像を手がけるなど、粘土による塑像制作と乾漆彫像の制作に励んだ。
砺波地方に疎開した作家と・・・

池田カオル 1946年生れ

作品一覧

玉野勢三 1954年生れ

草原の少女

藤川勇三

12/30(火)に、加藤寛氏の「漆芸品の鑑賞基礎知識」(至文堂)のp153に藤川勇三のことがでているのを思い出した。漆を語る会のビデオ「興福寺国宝展と乾漆について」で最初にその名を聞いた。
彫刻家藤川は玉梶象谷の孫にあたり、かなりの漆芸の腕を持っていたそうだ。

三輪田真佐子像(1919)の制作

乾漆仏の説明のページ

京都の文化財

仏像について

何を基準に並べればよいか見当もつかないし、作品もはっきり分からない。
掲載に値すると感じた名前を適当に並べたに過ぎない。
何をもって彫刻とするのか、よく分からないのは含めない。
具象的であるか、線や面、量にまで抽象化されているのは、彫刻と感じられる。
後藤氏をはじめて訪れたとき、こんなのもしていると、ブリか何かの魚の乾漆作品を見せてもらった。
短大の学生にしたって、いろいろ作っていた。
金沢でも、舟の感じに毛が3本というような、韓国の人の乾漆を見たことがある。
どれも乾漆彫刻と呼んでも間違いないだろう。
そのような乾漆と乾漆仏とがすぐ繋がるかのように説明しているホームページには呆れるしかない。
熱処理をしてさえ、蓋と身を合わせるのは、簡単ではない。
切り分けて粘土を出し、縫い合わせると気楽に書ける事が、漆の仕事を知っているのかと思わせる。
「蓋物の遊びを無くし、立ち上がりできゅっと締まるように作る」ような感じに組み合わせる方が、はるかに狂いが少ない作品になるだろう。
小品でさえ、こんな問題が出てくるのに、大きなものははるかに困難だろう。
「日本の美術 乾漆仏」(久野健 至文堂)のp85以降を読んでみればよい。
信仰心の問題もある。

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