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〔明治38年の製漆法…〕
〔千年の匠の技を伝えたい〕 〔輪島〕 〔中野先生講座〕 〔乾漆のことなど〕 〔高岡廻り〕
〔麻布二枚とは〕 〔奥田元宋展〕 〔散居村とは〕 〔考古学とは〕 〔夏至〕 〔研究会〕 〔今週〕 〔日本近代洋画〕
〔麻作り〕 〔釜師のモダニズム〕 〔輪島へ〕 〔金森展〕 〔尚美展〕 〔本のメモ〕 〔ひるどき日本列島での放送〕
〔12/13〕 〔とやまの工芸と美 ’03〕
昨日は忘年会で砺波ロイヤルホテルで一泊。
朝には樹木に雪の花が咲いていました。
露天風呂にも雪が舞っていました。
9時過ぎに駐車場に行くと、10センチぐらいの雪が車の上に載っていました。
少し前まで晴れ渡っていたのが、また降雪になりました。
福野へ行く道も新しくなっているところがあり、どの道を進めばいいか迷う。
古い方の道に進んでしまい、遠回りせざるを得なくなる。
ヘリオスを見つけても、駐車場への入り口がまた分からない。
建物側は車で埋まっていたが、その裏はガラガラ。
開会式会場も、普通の入り口はまだ閉鎖中で、前を行く人についていき、何とか到着。
知らない顔ばかりだったが、長岡さんがおいで、一安心。
細川さんも来られ、少しして得地さんを紹介される(砺波野美術展)。
Sさんもギリギリに入ってこられた。
主催者などの挨拶が続いた後、映像用(KNB)にこちら側を向いてテープカット。
離れたところで聞いた作品解説を少し思い出しながら、後から作品を観る。
会派を超えた合同での展覧会であるから、いろいろな刺激がある。
工芸会の方は、形が使うためにあるという意味で、具象的というか、見慣れた(自分で何かから抽象したということは無い)感じを与える。
日展の方は、モチーフに具象的な感じを残す作品が多い感じがした。
テーマが生命力や自然の賛歌にあるとしても、それを抽象化した方がより良い感じがする。
有名な人の作品はそんな感じがした。
実力を感じさせるのは、高岡の金工と井波の彫刻(木工)であるのは間違いない。
会場にいたことで、作品について語る番がまわってきた。
中を見たいというので、蓋と懸子をまくる。
すぐ震えがくるが、そんなことを気にするのは自分でしかない。
蕾の持つ生命力を表現したかったこと、乾漆の説明、明るい朱と暗めの朱を同時に塗った為、塗り境がキチンと合ってないことなどを話す。
後で、食籠なら、濃茶(主菓子)、薄茶(干菓子)を同時にすることはほとんど無いから、懸子は不要ではないか、それでもそういう流れの茶会も無い事は無いから、そういう意図を持って作っているのかと聞かれる。
伝統工芸展だけの、つまり展覧会向けの作品ではないのかという指摘である。
茶道を知らないので、新鮮な指摘だった。
putting cart before the horse的に茶道をしてはいけないといえるが、形から入っても人生を考えることが出来るかもしれない。
コーヒー券があたったので、一人で喫茶店に入り、パンフレットを見ていた。
出ようかなと思っているとき、林さん夫婦がおいで、同席。
家の場所の説明で、向こうから高波という地名がでた。苗加の生まれなのだそうだ。
更にSさんも同席。
会場を出る前、作家名が「佳美」ではなく「住美」だと教える。
会費を集めているので、こういう記憶だけは確かである。
K沢医院、9時に到着したのに、かなり混んでいる。
送り迎えをしてもらうから、年配者が土曜日にも多いのだと思いつく。
2ヶ月毎の視力検査、変化無し。矯正視力1.0と0.9。
充血も消え、悪くはなっていない(良くはならないが)とのこと。
夜道の、後ろからすぐ追いついてくる車のライトがサイドミラーから入ってきて邪魔になることを話す。
自分の解釈として、暗さと強い光とで、相対的に大きく感じられ、対応できないのだろうと話す。
トンネルに入ったときの対応が難しいことと同じなのだろう。
11時に2750円支払い、買い物をして帰宅。
昼食後、福岡で信金に寄る。あと二人のまま。
午前中は晴れている事もあったのに、強い雨が降り出した。
フィンランドの学生の作品展など。交差する溝にスプーンなどを立てる発想は良かった。
直線と曲線が、滑らかではなく(曲線や直線の感じを強く残して)繋がる感じが、独特なのかなと感じた。
SUOM Iといえば、中学校の時、文通していたことを思い出す。
文法や個別の単語を除けば、かなり学力があった英語だが、英語力の差をすごく感じていた。
O沢さん宅、巡回展にいった作品の桐箱を受け取りに行く。
誰が考えても、桐箱から取り出しての輸送はまともではない。
ロストワックス技法は、ゴム型が出現し、それで蝋型が幾つでもできるようになり、量産化されるようになった。
そうではない作品を考え出すしかない。
この2年、麻布2枚でやっていたことを話す。
丈夫さに欠けることが最大の欠陥、微妙な狂いも残る。
今日は夕方から、O角さんの祝賀会だそうだ。
ユーモアのデザインというのを見に行く。
説明無しで見て、個人的の欲しいと思っても良いと思ったのは、「座・CUBE」という狭い空間。
ラジオによれば、昨日プレゼンテーションがあったそうだが、見た瞬間での表現力は?
見る人の感受性がないと言う方が当たっている?
プリンターのインク、黄色のみ買う。BJC・・・の黒はなかった。
暗くなる前に帰宅できた。
粘土原型に模様をつけ、石膏雌型取り。
烏賊刺しを作り、久し振りに焼酎。
写りの悪いテレビだが、何とか見ることが出来た。
輪島の朝市通り。前先生が出演。
父の代から50年ほど使い続けている汁椀、修理していけば何時までも使える。
手板を持った行商を昔はしていた。
地の粉を混ぜ、下地塗り(と言っていた)。
上塗りは、お椀を塗っていた。刷毛を横方向にして渡し、通常の塗り方で広げていた。
何度もドンブリに刷毛を持っていったということは、少量ずつ塗り足していることになる。
上塗り部屋は、23℃、80%だと言っていた。特殊な漆?
島津さんが前先生の仕事部屋で沈金の仕事を見る。
彫った後、漆を渡すのは、クジラ箆に見えたが、、、
和紙で拭き取り、真綿につけた金粉をわたす。(実際は、少し乾かした後)平地の金を拭き取る。
長く伝えられてきた伝統を守り、その技術を伝承していくと話しておられた。
何事も最高度に達した世界が本流であり、その中に技術の意味がある。
ここを無視して、自分だけの拘りを自分の世界だと錯覚すると道を誤る。
あくまで漆が主役である。自然、それに感動する自分は、表現の主役と言えようか。
10月27日(月) 本からのメモ to November 21
「漆掻きを始める人は、先ず、従来からの技法を一応身に付けた上で、次の行動に移ってもらいたい。戦後の漆掻きは、例外なく我流で始めるが、仲々うまくいかない。一旦、我流が身に付くと終生直りにくいものである。
昔からの技法は言うまでもなく何百年、或いはそれ以上の間に、先人達の積み重ねに依って形成された訳で、それなりの重みがある。・・・
『漆掻きを論ぜざる者 漆芸を語らず』丹下民雄」
(「備中漆掻き」丹下民雄著 p96)「・・・圧縮という過程は、まったく世のつねならぬものであり、奇怪なものだと主張してよい。夢の中の合成人物の姿と同じものが、私たちの空想の創造物に多数発見される。・・・『創造的』空想といっても、新しいことを発明したのではなくて、縁もゆかりもない各部をつなぎ合わせただけだ。・・・夢の仕事に用いられる原料は観念である。・・・二つの観念をほのめかすような、あいまいな一つのことばを選んで、二つのあい異なった観念を圧縮しようとする。・・・」
(「精神分析入門」フロイト 角川文庫 p190−)「夢の仕事の第三の作用の・・・本質は、観念を視覚像にかえることである。」(p193)
「あきらかに夢の仕事では、ことばであらわされる潜在観念を、感覚像、たいていは視覚像に変えることが中心になっている。ところで観念というものは、このような知覚像から生まれたものだ。後にこの像にはじめて言語がくっつき、ついでこれが結合して観念が作られたのである。だから夢の仕事は、観念に退行的処理を施し、観念発達の道をあともどりさすことである。」(p201)「脳内の一次方程式・・・この入力をx、出力をyとします。すると、y=axという一次方程式のモデルが考えられます。何らかの入力情報xに、脳の中でaという係数をかけて出てきた結果、反応がyというモデルです。
このaという係数は・・・「現実の重み」とでも呼べばよいのでしょうか。・・・
特殊なケースとして・・・a=0・・・a=無限大・・・
ここまで述べてきたことは、「わかる」ということについてでしたが、感情についても同様の説明ができます。
aがゼロより大きいという場合・・・ゼロより小さいとき、・・・」
(「バカの壁」養老孟司 新潮新書 p30−)
ほとんど途中までしか読んでない本ばかり。
この本は、6月に金沢に行ったとき(石川の伝統工芸展、百万石パレードの日)、駅のうつのみやで探したが、出版社を覚えていなかったので、見つけられなかった。(新聞の書評で見ていた)
この前の25日(土)に文苑堂本店でやっと買う。
個性、人間、知る、、、万物は流転す。現在は逆転し、情報が変わるとなっている・・・
興味深い話というより、自分に欠けている何かを感じさせる話が続いている。「脳は社会生活を普通に営むために、『個性』ではなく、『共通性』を追求する・・・これと同様に、『自己同一性』を追及するという作業が、私たちそれぞれの脳の中でも毎日行われている。」(p53)
「意識が自己同一性なり共通性なりを求めるものであることの代表例が言葉・・・」(p70)
プラトン
p72リンゴ
p71−冠詞 ソシュール
p76日本語の定冠詞
p76−入力から出力へ
p78−イデア 脳内「リンゴ活動」 a,an 言葉が意味しているもの おじいさんとおばあさんがおりました 脳 外界のリンゴ the 言葉によって意味されるもの おじいさんは、山に柴刈りに 本能
「これだけ巨大になった脳を維持する為には、無駄に動かすことが必要・・・刺激を自給自足するようになった。これを我々は『考える』と言っている。」(p80)
「神に限らず、人間が頭の中だけで生み出すものは非常に数多く存在しています。これを昔は『概念』といっていた。・・・ごくシンプルに言ってしまえば、神というのは人間の進化、脳の進化そのもの・・・」(p81)
p82から、「超人」を作り出す方向が見えるという話。マウス、チンパンジー、人間、、、「考古学は、後世に残された物証だけをもとに再構成する学問ですから・・・」(p89)
これにより、神秘体験なる、身体におこる現象を麻原が「予言」でき、弟子が追体験出来たから、信者になったということが分析できた。
身体のことを忘れ、脳だけで動くようになったいる。
「知ったことが出力されないと意味がない」(p95)
「赤ん坊は、自然とこうした身体を使った学習をしていく」(p95)p102−に「共同体」の問題、p110−に「人生の意味」、p115−に「無意識」の問題、、、
「脳はひとによってそんなに違うものではない。脳を構成しているのは、神経細胞とグリアと血管、・・・神経細胞というのは非常に大きい細胞で・・・栄養をとるとか、自分ひとりで生きていくのが難しい細胞なのです。・・・グリアは・・・神経細胞を生かすために働いている・・・」(p129)
*今日11.3に、本の方は読み終えましたが、纏めるのはまだ時間がかかりそうです。「ニューラル・ネット・・・神経細胞自体は興奮するかしないかのどちらか・・・興奮しているのは非常に短い時間・・・次の細胞は、一つの細胞からだけ刺激を受けるわけではなく、沢山の細胞から刺激を受ける。・・・刺激の総和をとって、その総和がある閾値に達した時に、今度はその刺激を受けた細胞がシナプスを介して反応する。・・・このシナプスには興奮性を抑制性と二種類・・・人間の反応は、刺激に対して神経細胞が反応するかどうかで変わる、・・・」(p130−)
「方向判断の仕組み・・・左右からの刺激がぶつかる場所・・・は、真ん中の・・・細胞を超えたところ・・・このぶつかる場所で、私たちは音の位置を判断しているのです。」(p135−)
「普通なら繋がっていないところを繋げてしまっているのではないでしょうか。
スポーツの天才は、まさにそういうことが出来る人なのでしょう。・・・」(p140)
「ピカソの秘密・・・おそらく彼は意識的に、絵を描く際に、ノーマルな空間配置の能力を消し去ったのです。」(p142−p144)「キレる脳・・・前頭葉機能が落ちていた・・・衝動殺人犯というのは脳から見て抑制が効いていない、我慢できない人・・・
連続殺人犯の方は・・・扁挑体といって善悪の判断等にかかわる部分の活性が高い・・・活発に働きすぎて犯してしまう。」(p149)「教育の怪しさ・・・自分が正しいと思っているバカが一番困る・・・子供に顔が向いていない・・・」(p157−)
「せめて、好きなことのある教師で、それが子供に伝わる、という風にあるべきです。・・・学問というのは、生きているもの、万物流転するものをいかに情報という変わらないものに換えるかという作業です。」(p164)
「情報ではなく、自然を学ばなければいけないということには、人間そのものが自然だという考えが前提にある。」(p165)「合理化の末路・・・合理化、合理化という方向で進んできて、今もその動きは継続している。・・・余ってきたやつは働かなくてもいいのか・・・働かない人間は何をするのかということの答えを・・・」(p176−)
「・・・全てのものの背景には欲がある。その欲を、ほどほどにせいというのが仏教の一番いい教えなのです。」(p183)
「欲望としての兵器・・・戦争というのは、自分は一切、相手の死ぬのを見ないで殺すことができるという方法をどんどん作っていく方向で『進化』している。」(p184)
「経済の欲・・・金というと、何か現実的なものの代表という風に思われがちですが、そうではない。金が現実ではない。
金は、都市同様、脳が生み出したものの代表であり、また脳の働きそのものに非常に似ている。・・・」(p186)
「要するに都市生活、つまり経済というのは、エネルギーがない限り成り立たない。これが大前提です。すると、一エネルギー単位が実は一基本貨幣単位だというのは、実体経済のモデルとして考えられるのではないか。」(p190)
「神より人間・・・バカの壁というのは、ある種、一元論に起因するという面があるわけです。バカにとっては、壁の内側だけが世界で、向こう側が見えない。向こう側が存在しているということすらわかっていなかったりする。」(p192-)
「・・・原理主義が育つ土壌というものがあります。楽をしたくなると、どうしても出来るだけ脳の中の係数を固定したくなる。aを固定してしまう。・・・」(p198)
「知的労働というのは、重荷を背負うことです。ものを考えるということは決して楽なことじゃないよということを教えているつもりです。・・・」(p200)
・・・「しかし、こちらは、『人間であればこうだろう』ということは考えられる。それは、普遍性として成り立つわけです。・・・一元論的に神様を引っ張り出すと、ある方向へ行くときは非常に便利です。有無を言わせず決めつけることができる。・・・現状は、・・・あちこちで一神教化が進んでいる。・・・
安易に、『わかる』、『話せばわかる』、『絶対の真実がある』などと思ってしまう姿勢、そこから一元論に落ちていくのは、すぐです。一元論にはまれば、強固な壁の中に住むことになります。・・・自分と違う立場のことは見えなくなる。当然、話は通じなくなるのです。」(p202-)
*内容というか、言葉だけでは、そうだと言ってみても、実践は難しい。
柔軟な感性が、制作の立場からいえば、求められるということだろう。
売れ続けているということは、この本を読んだ人が100万人を越えたということを意味するが、日本人100人に1人は影響を受けたことになるのだろうか。
相変わらず、自分の立場から、自分なりに理解 しているだけなのだろうか。
高信福岡支店で振り込み。自分だけでするのは初めてなので、何度かやり直す。
慣れれば何とかなるのは、パソコンと同じだろう。
一度家へ戻り、戸出経由で高岡に向かう。
工芸高の第96回尚美展。例年通り、電気科から見る。
戻ってくる途中で、吉川さんに会う。
工芸科の大先輩であるはずなのに、、、
漆にかぶれるので漆はしないといっていたSさん(昨年朱漆を練った人)の蒔絵(漆絵)は、花弁を丁寧に描き、色分けもしていて、もったいない感じがした。
自分の思いを表現しきれないのもあったが、技術は後からついてくる。
若いし、その気があれば、、、
Uさんの奉仕で何とか仕上がっている。
教育とか、個性とか、耳触りの良い言葉を並べているが、育てる為の資金は出さない。
米百俵とか、言葉を出すだけで、可能性に投資する気は全くない。
大和での高岡クラフト展。
木工は素朴でしかあり様が無いから、一番安心して感じられる。
ガラスは、光と競演できるから、可能性が一番ある。
その点、漆が主役の作品があるのかと、つまらなさを感じる。
どんな展覧会でも、傾向があり、入賞、入選の対策がある。
シリーズというか、少しずつ形とか、表現を変える。
時々に使い方を楽しめる、何人かでのパーティを盛り上げる、、、
どこかで見たような形と色々なのを組み合わせる。
砺波まで回って、帰宅しました。
昨日、午後から高岡市美術館に行きました。
地下駐車場に入ったので、ハイビジョンホールの横を通る。
どうしようかと思っていた座談会を聞くことになった。
「私が出会った人間国宝」金森先生との思い出。
昭和16年頃の教え子から昭和58年の出会いまで。
授業が終わった後、教官室で5人が出品作品を制作した話。
形が良くなくてはいけないし、模様も形にあっていなければならない。
微妙な点を大事にされた。小さいモデルを幾つも作って、考えていた。
模様はできるだけ少なくする。図で考えたのを実際の形に合わせて、また考え直す。
心が大事である。驕ってはいけない。特別展「人間国宝・高岡市名誉市民 金森栄井智の偉業を偲んで」
作品を観て、目をつむってみる。余り上手くできないが、形だけを思い浮かべ、また目を開けて模様を見るとどう感じるかとやってみた。
直線に見えて、直線ではない。
模様にも細かい工夫がある感じがする。
栴檀は双葉より芳し。
12年半前の、富山県民会館での「金森栄井智回顧展」を観ていた。
まだ支部展に出品したこともない立場だった。
梵鐘を鳴らしてみて下さいに言われたので、鳴らしてみたことがある。第二展示室は、現代作家とかいう人々の作品だった。
鼓か砂時計のように見える大きな作品が印象に残った。
光を通すのなら面白くない。横から風を受けたら、どんな音がするのだろう。
狭くなっているところで良い音がしなければ、悪い形なんだろう。
物理実験でもして、その学習を通して、線の意味(流れ)を知り、美しさを感じるようになるのではないか。
先験的に美的直感があるとは思えない。
台風14号接近中の中、昨日輪島へ行きました。フェーン現象で35℃ほどだったとか。
風に振られるのを避けるため、窓を閉め、エアコン。
津幡経由で、下道を走る。ついスピードが出すぎてしまう。
アルプラザの横を通る時どこかで左折しなければならなかったはずだが、分からなかった。
直進を続けていると、道路沿いにあった。道が出来ていたようだ。
後ろから抜きたそうな車がいたが、無視。
カーブも直線もあまりスピードに変化をつけない。
2時間40分ほどで、ファミィ。パンや茶を買う。昼食。現代の百工比照シリーズ2 人間国宝のわざ きゅう漆と截金 (輪島漆芸美術館)
講演会・列品解説『赤地友哉の曲輪造りについて』大西勲先生・柳橋館長
友の会のカードを見せ、展示室へ。
截金は、細かくて見えない。
西出先生の姪(砺波市)が利喜夫君の従姉にあたると昔聞かされた。
曲輪の表現は、木工の轆轤の仕事と同様、限られた中でするしかない。
赤地先生は柔らかく、大西先生は鋭いという感じが何となくした。
何か見たような人、坂下先生夫妻だった。結果を話す。
人が増えだし、Oさんもおいでる。「正会員、おめでとうございます。」
会場でビデオを見たりしていた。越橋さんに見せてもらったことがあったのと、、、
1:30pmの開始の5分前に講義室に行くと、ほぼ満員。前の方にいってほしいというので行く。
前から2列目、ここがあいているといってくださる方がいて、その隣に座る。
何となくそうではないかと感じたが、やはりSaさんだった。
ひとつ席をあけて、前先生。あいているところに坂下先生がおいでる。子供の頃、精密模型の軍艦や飛行機を作るのが好きだったそうです。
刀鍛冶になりたかった、、、日本刀
洗練された無駄のない線。
父が宮大工で、板一枚に少し書くだけほかは、図面は頭の中に入っていた。
位置によって見え方が違うから、それで良いという勘が大事−それを差し金で計る。
図は頭の中で整理できない時のみに書く。
いろいろな職業を経験したことも、役に立っている−モチーフ、技術。
柳橋先生がたまたまカルチャーセンターで、赤地先生と大西先生の出会いを作ったことになったそうだ。
刃物を直したり、財布を落としたり、いろいろあって昭和49年12月に弟子入り。
赤地先生が仕事を断らなかったので、仕事が増え、主に木地作りをしていたそうです。
10年間物作りをしていただけで、作家になる気は全くなかったそうです。
自分が削って作ったクジラ箆、檜箆、竹箆が、輪島や高松にあって、、、
曲輪の木地は鉋、毛引きで作る。答えがある仕事ではない。
何かを作らねばならない。
生まれ育ったところの石炭の色−くすんだ黒(光った石炭は質が悪い)、燃える赤。
茨城の透明度の高い漆。
精製は福井で習ったそうです。
漆掻きオノセさんから、早物、盛、中塗り用、下地用と全てもらっている−作品は全て日本産漆。
木が濡れている時は漆掻きをしない。
掻き殺したウルシノキの枝を切りそろえ、水に浸け、瀬〆漆にする。
冬、木の根から取った漆が接着に最もよいとのことでした(30年程前まではそうしていた漆掻きもいた)。人造砥は粉末を固めるのに塩化ナトリウムを使う−錆る。
天然砥で研ぐと錆ない。
ステンレスは日本刀をヒントに考え出された。
日本刀はうちぐもりという砥石の粉でポンポンと叩き、脂分、埃などを取る。
道具は使えば使うほど手に馴染む。錆ない。
時々使うとしても、天然砥で研ぐ。艶消し漆の作り方、どのくらいかは自分でやってみるしかない。
油の全く入っていない蝋色漆は、ドンブリ一杯に卵1個の白味で絞漆を作ろうとしても、粘って作れないそうです。
使っているうちに手の脂で艶が出てくる。
赤地先生の芸術選奨の曲輪造平棗の木地構造が展示してありました。
蓋・身とも11段(身は一つ立ち上がり付き)、甲・底板。
他にも中研ぎ状態、木地構造、、、終わって、トイレのところで会うと、「遠くから来てくれて、、、」「富山市に総曲輪という地名があるのを知っていますか」と尋ねてみた。
知らないとのことでした。
「曲輪」を赤地先生は「がわ」と呼んでいたが、誰もそう呼んでくれず、結局「まげわ」になってしまった。
輪島に来て一枚も写真を撮らないのはよくないと、車のドアを開けたまま、風が強い写真を撮っていました。
Saさんが現れたので、ソウガワの件を話しておきました。
今回はかなり人と会ったので、よかった。
基本技術を丁寧に重ねるべきことを痛感しました。
4:20pm頃出発。丁度、松任から出発していたツール・ド・能登(?)の一日目のゴール、輪島市役所付近。
強風の中、大変。(追い風なら楽だが、どうだったか?)
能登自動車道で白尾インターまで。横風がすごかった。
西日がまともに正面にくると、前ガラスに付いた埃で前が見えず、ワイパーを動かす。
白尾は工事中が続きで、もし暗かったり、前に車がいなければ、どこを走ればいいか分からないくらい。
倉見の家の前を通り、段々暗くなる中を走る。
暗くなった6:10ころ、叔母の店、妹の家の祭りに招待されているので持っていく酒を注文。
従姉が出てきたので、完成もしていない方法はまだ発表すべきではないというのが、会の見方だろうと話す。
急に雨が降り出し、久し振りの恐怖(?)。
7pm頃には妹の家、かなり飲む。
今日は軽い二日酔い。午後はイオン高岡の会場当番、2時間40分。ショッピングセンターの溢れるような人に比べると少ないが、それでも自分で押したカウンターだけでも250くらいあった。
タテヤマで、夜運転中、後ろから煽られないようにとマークを買う。
「好きか嫌いか」と問われたかどうか、よく分かりません。
自分の発想が、自分の感性に響くかどうかにあるという、出発点の違いかもしれません。
精神科医的には不健康な、存在自体への疑念が燻っているということかもしれません。
絵を見ていてつまらないと感じ始めてから、自分にとって何か役に立つことがあるか探し出すことがある。
更に疲れてくると、この中でどれが一番自分の手元におきたい作品だろうかと考える。
「好きか嫌いか」と見るということは、作品一点一点と対話するということだろう。
感性に響くかどうかという態度は、自分の潜在意識の出現を待っているということになる。
対話するということは、作品、作家の間の影響を見つけ出すことのようだ。
釜としてヒントになるかどうかという視点で見るそうです。
フォルムをより生かす模様、裏表に差のない仕事、、、
ヨーロッパ風、日本風。
初代の話として、いいものを作る原因を作れ−生活、書物、展覧会、、、
遺作(自分で仕上げたものとしての)は全てを語ってくれる。
ふくよかな形、形に合った絵、地紋はないよりあった方がよい、、、みどり会の漆芸をさらっと見てから、常設展の券を受付でもらって(友の会は無料)、講演会に関係する作品を観に行った。
ハイビジョンホールでのスライドは大きかったが、展示してあるのとはかなり違っていた。
余分なものが、実物以上に陰影をつけて写されていたので、何かよく分からなかったのだが、やはり本物の方がよいと言うしかない。「好きか嫌いか」という捉え方は、裁判の有罪か無罪かというのに似ている気がする。
それを理由付ける為の原因を並べ、他は無視する。
しかし、決定的に違うのは、好き嫌いは直感に依存する点にある。
いろいろ連想ができる作品は、観ていて楽しいということかもしれない。
それと自分の好み、意識と合うという感じだろう。
乾漆をしていて、麻がどんな植物かよく知らない。
麻には雄と雌があり、前者に緑白の花、後者に種。種を採るのは4メートルほどありました。
4月に植え、120日ほどで切るそうです。
切ったものは、束ねて、二階に保管して乾かす。カビを防ぐ。
水を入れた舟に全体を浸す。
麦わら(?忘れました)の上に積み重ね、ビニールをかけて発酵させる。
朝、夕に舟に浸けるそうです。
二日間程で、ヌルヌルするまで。
皮を剥ぐ。輪になる感じに揃えて置いていく。
表皮を山の形をつけた板で取る(・・挽き)。何挽きだったか忘れました。
陰干しする。
注連縄などを作るそうでした。
8月17日(日) 「日本近代洋画にみる人、花、風景から抽象へ」(高岡市美術館)
帰省中の下の子の運転で、高岡市美術館へ、京都国立近代美術館所蔵名品展を観に行きました。
駐車場の手前の通路横に車を止めるようにとの警備員の指示。
最初の作品「厨の春」(伊藤快彦)は、日本画では、あり得なかった絵だと思った。
「夜桜」は、煙が気にかかったが、時代が違うということだろう。手前の人々に気付かなかった。
「麗子弾絃図」は、右手の力強さが目立った。
「冬林」(黒田重太郎)は、人が動いている感じがした。
「ポーランド人の姉妹」の石彫の感じ、「街角の魚店」の生気のなさ、一方「婦人像」(安井曽太郎)の生き生きとした感じ。
「渓流」、絵は普通遠くから見ると色が混ざって、新たな印象を与えるものなのに、、、
「晩春」、色合いで季節を理解してほしいということかもしれないが、、、
観ていて全体の印象がつまらないとき、作品名や作家名を先に見ることが多い。
作品を先に観ていたのだが、前田常作「人間星座(8)」は、動物園で中から人間が観察されている感じを受けた。
梅原作品は、理解の外と言うしかない。
観ている人の表情が、すましているのは、芸術を前にしている所為か。
自分が受け入れるか、受け入れないか、その差はどこから来のだろう。
モチーフへの関心もあろうが、独自性を装う感じがするものは詰まらない。(8.20)工芸の作品を6.22、7.12に作家の個展として見て思ったが、個人の作品を並べて見ることでその人の雰囲気が何となく分かるというか、感じられるようになる。
絵画でも同様だろう。
有名な梅原作品を2点だけでは、どう捉えるか、頭が働かなかった。
学んでいる感じがする作品は、それは一つの過程だから、それで文句はない。
アメリカ風を装うのが、何かつまらないのである。
表現法ではなく、精神を表面だけ真似ているのが、詰まらないのである。
今朝1時間半ほど仕事をした後、月に一回の眼科。
割合早く終わったので、砺波郵便局のポストに投函。
インターネットの報道でみていた北日本新聞砺波支社「林哲三 木の器展」へ。
本社のギャラリーより明るく、いかにもギャラリーらしい感じ。
指物、挽物、刳り物の全てで正会員の実力を持つ人は林先生だけと聞いている。
上品な感じの作品が並び、気持ちが落ち着く。
案内をもらっていた孫子の「酒井安子…書 小川京子…編み組み」へ。
山道は霧雨に煙っていた。(少し大袈裟?)
酒井さんの書は、龍のようでもあり、かなり大きな水の流れのようでもある。
じっとしていることが出来ないようだ。
麻布が並んでいたので、何か良いのがないかと見る。
目が細かく、薄い感じのは、二つともシルクだそうだ(1m5000円)。買いません。工芸高で漆塗り
7.7(月)今日午後から、工芸高で漆塗りの指導を7人でしました。
朝も雨、昼頃曇り、だいぶしてから太陽が顔を出したりしましたが、
こんな日に漆を塗るというのです。湿度をとる装置無しに。
暇な顔をしていたからか、学校の先生が暈かし塗りをしてくれと言ってきました。
人前ですると緊張し、震えが来ました・・・暈かす為に揺すっているので誤魔化せたかな?
自分の漆でないし、梅雨の真っ最中、どうなるか?7.9(水)今日も午後から、工芸高校。
暈かし塗りは、一部縮み。それ以上にゴミだらけで、ゴミの動いた跡が溝になっていた!
午前中に雨が降り、非常に蒸し暑かった。塗る感覚だけは分かった。
水銀朱と違い、王冠朱はすぐ塗ることができる状態になるようだ。
変わり塗りをほとんどしたことが無いので、見ていることが多かった。
見ていても、自分の作品でしてみたいと思わないから、困ったことです。7.11(金)今日も午後から、工芸高校。
今度の火曜日に除湿機が入るそうですが、3日間とも蒸し風呂に近い中での漆塗りでした。
縮ませない塗りは出来ますが、蝋色工程に耐える厚みがあるか、、、
就職の関係で途中で抜けていった生徒の残りを塗ったり、
できるだけ口出しはしないようにしていたのですが(この3日間以外、指導することはない=続けて責任をとるわけではない)、
自分の塗り方を見せたりもしました・・・内から外方向に、刷毛を寝かせ気味に斜めに境を渡せば、隣の面にはみ出ることが少ない。
渡しながら溜まっているところを均す。大きな感じに広げる。全体的に厚さムラ少なく塗った後、縦均しをし、刷毛の漆を調え、仕上げる。
端付近は、内から外に少し出て行く感じに塗る。
蒔絵で是非してみたいということがある生徒がいたので、吉川さんに電話。後で相談に行く、、、
工芸会の会費の件、自宅での仕事とすることがあるし、、、内島さんが連れて行ってくれることになる。
閉講式まで、今日は休みなしで過ぎました。
例年通り、金沢から大場先生を招き、研究会が開かれました。
量感、何を見せるか、、、vs自分のしたいこと、、、
一番したいことは自分で決めるしかない。
何かわかるように、、、
多すぎる、、、or もっと何かできないか、、、
私の作品は、はっきり見えない状態にあったとはいえ、呆れられました。
可能性はあるとのことでしたが、、、
二枚貼りは技術的関心が一番強い。果たして可能か?
10年残っていれば、、、ということを言い訳にしているのかもしれない。
独自性を何に求めるか。
習ったことの延長線上(本流)で成果が出せる人が一流なんだろう。
兎に角、今は迷いの中にある。
根本先生の関係で短大にある奥出寿泉乾漆原型・素地を見せてもらいました。
厚み1mmぐらいの素地は驚くべきものでした。
引き箆とか中心とか、、、秘密以上に、技術の差がある感じでした。
抜き型のことも、皆で話題になりました。
今頃は制作に励んでいるべきなのに、歪んだ素地の所為で、仕事が出来ない。
焦って仕事を進めても、狂いを大きくするだけだ。
県庁の無料駐車に間に合うよう、8時半前に家を出た。
9:15頃、まだ少し余裕があるうちに駐車できた。
交差点斜め向かいの北日本新聞社へ行くも、正面は締め切ってある。
通用門を探して、右へ行くと、ギャラリーがあり、中に入る。
「o展」 中にoさんがいた。
11時過ぎに帰宅できたので、床屋に行く。今回は、短めに切ってくれる道明の方に行く。
午後は、支部会費の納入チェックに信金へ行く。1週間で8件の入金。
タピスで牛乳などを買う。正得のスタンドで給油。
ビール券をビールに交換すると、従姉が忙しくないかと聞いてくる。
ワードの表を、同じファイルの中で付け加えたいとのこと。
フロッピディスクをワードに送り、そこでコピーをしてみたら、、、
その他のことも、狭い経験を基にやってもらうと、大体できた。
帰宅後、支部の領収書を送る為の事務処理。七社のポストへ。
米糊を煮て作り、糊漆作り。漉す。
素地がまだ動くので、急激な仕事は出来ない。
1週間後に、O場先生の研究会との電話があったそうだが、焦ってもどうしようもない。
合い口はほぼ合ったので、次は外側の形をあわせる。
あまり時間はないのに、まだまだすべき仕事が残っている。
二日続けて飲む。
6月12日(木) これもオーぷんofficeで書いたものを写しました。
考古学とは
弥生時代の始まりが、今まで考えられていたより、500年ほど古いらしいということが分かった。炭素14年代測定法という方法の、最新の高精度のAMS法による、科学的な成果である。
考古学の新説ではない。科学的な成果を新説だと唱える人がいるらしいが(新聞記事による表現に過ぎないのかもしれないが)、学説というなら、縄文時代との関係、中国、朝鮮との関係をキチンと説明する必要がある。
鉄を扱えたとするなら、技術的に説明する必要がある。
考古学なるものには、実際に存在したもののうち、消滅せずに残り、偶然発掘されたものを元にしているという限界がある。
残っていないものを埋めるのは、人間一般としての想像力、技術的可能性などである。
他の国との比較も有効である。
出土したものの年代測定は、空白を埋めるのに重要なヒントになる。
それをつなぐことが出来てはじめて学説(仮説?)が成り立つ。
最古ということが重要だといえるのは、質的に違ったものであるときだろう。
少なくとも、漆に関しては、硬化する性質は中国でも利用されていた。
塗料としての性質を発見し、発展させたのは、中国漢代の頃であり、日本では全く発展しなかった。漆の世界での質的な転化を無視してはいけない。*学者など、安易な考えをする人は、道具や材料が揃っていれば、技術は確立していたと推定する。職人は、そうとは限らないと確信できる。
現在のように、技法がかなり公開されていても、思うようにならないことが多く、更に名人に近いと認められる人さえ、時として漆に逆襲されると告白することをどう考えるか。
辰砂が古くから使われていても、粒の大きさが一定しない。
現在でも、練り足りなければ、発色が悪い。
技術的な証明がない限り、安易な結論は出さない方が良い。(6/19)縄文時代にも米が作られていたという説も、再検討する必要が出て来たかもしれない。
縄文時代から弥生時代への転換は、アナログからデジタルへの転換というふうに類比できるだろうか?
土器の変化というより、鉄器とか別種の米とか、質的に大きな差がある生産方式を持つ人がやってきた。
土器の形は、経済より文化の匂いがする。生への執念という感じがしない。
今まで考られていたより500年早かったとすれば、変化が緩やかだったことになるのか、文化の伝来の道が違っていたことになるのか?
単に今まで考えていたより、全てが古かっただけになるのか?
6月8日(日) おープンofficeを使って、数日かけて書いていました。
散居村とは
昔のことは知らないが、散居村が表現されるのは、耕地整理された水田に点在する形を取ることが多い。
今から30年程前に出現した姿である。
単純化された姿が、絵画的なのかもしれないが、少なくとも自分にとっては、異和感がある。
迷路ほどではないにしても、知らない道は、他所の家に入り込む侵入者を感じさせた。
逆に知らない人が、ほとんど家だけが使う道に入ってくれば、怪しい感じがした。
「知らない」といっても、自分が子供だから知らないだけのことが多いし、その人は曲がりくねった道の連絡を知っていて通っているのだろう。
秘密めいた道が連なり、小さな田圃が所有者を複雑に絡ませながら点在しているのが散居村だった。
湯川秀樹博士の父の小川先生が、砺波地方で散居村を感受したのも、そんな感じだったろう。
今、棚田が注目されているが、こんな時代になると、散居村も棚田みたいものだった連想するしかないのかもしれない。大きさ、段という高低差という点でかなり無理はあるが、、、
縦、横の畦が線としての構成をなしているのが、近代的な絵画を連想させるのだろう。
人工を優先させる発想である。自分の感性が全てに優先することに連なる。
何かを見て感じることより、何かを感じている自分のことを感じたいらしい。
それが何か複雑になったというか、高級な人間になったと思い込みたいらしい。
自己を客体化することは、感性にとっては、不幸である。
科学技術ばかりが異常に発展を続けているが、衣食住という生活を通してしか生きられないし、詰まるところ、自分が正義、自分の利益という私欲の本性も変わらない。
この地方も、昔から洪水に襲われ、地形を変化させてきた。
それとともに、人々が力を合わせて、米を作ることができる田を作り直していただろう。
自分が知っている散居村のイメージも、30年以上前のものに発しているに過ぎない。
昔、山の上から眺めた時、夕陽はどう見えたのだろうか。
大きく構図を決めるのは、庄川であろう。
暴れ川が、俯瞰図を大きく変えてしまっただろう。
散居村を生み出したのも、洪水の多さかもしれない。
それとも治水工事によって、庄川が多少管理できるようになってからか?
定住が保証される地方だったら、家がバラバラにある必要はない。
都合のよい高台のない、扇状地であることも定住を不可能にしたともいえる。
北海道などへの移住も、明治以降、田の中に点在する景観を変えただろう。
生活する人のない景色と言えば、言い過ぎかもしれないが、耕地整理の終わった姿にのみ散居村を感じるのは、寂しい心と言うしかない。
5月3日(土) 「奥田元宋展」(富山県立近代美術館)を観に行きました
混雑を恐れてなかなか行けなかったのですが、いろいろの展覧会、観光と人出も分散しているだろうと出かけました。
35分ほど、開館5分後ぐらいに到着。目が痛くなるほどの好天。
桜が現実よりも生き生きした感じに見え、動きがある。
水の流れも、いろんな色だけで、急であったり、ゆったりであったりを表現されていた。
「紅嶺」と「白しょう(山偏に章)」と似たように見える絵が並んでいた。
急峻な山と岩礁、形・位置は違うが月、人間を拒否する感じはない。
ふと何故赤なのかと思った。
月影を赤で表現したい意欲はどこに生まれるのだろう。
神々しさはあっても、神秘的ではない。
自然を写生しつづけ、対話していた。
自分とは別世界の人だと言うしかない。常設展の会場が広くなったとニュースでいっていたが、いろいろありすぎて腰が痛くなってきた。
現代というには、この1、2年までしか許されない。近代とはどこまで?
シュールレアリズム、全く感覚が入ってこない。
現実に絶望した人でないと、分かることが不可能というより、絶望の中であがいている時出てくるものだろう。
抽象画にしたって、それを求める心が始めるのだろうが、あるパターンに陥るということは、ある時点から生の苦悩から離れてしまっていることを示している。
具象画にしたって、別に写真のように外形を写しているのではない。
N展は、元宋展で十分なので、行かないで帰る。富山県立近代美術館横の噴水
今日、第20回日本伝統漆芸展の「乾漆食籠」が日通で戻ってきました。
同じ形でも、石膏雄型と雌型と作り方を変えるとか、何かするものです。
外形的には、高台の形を変えただけです。
素地としては、49回本展は通常の乾漆、漆芸展は麻布2枚造りです。
重さは、654gと632gで、二枚造りの方が軽いですが、痩せ込みがひどい。
懸け子だけは、山下さんの麻布を使ったのですが、持っただけで重い。
理由が分からない。布目が粗いほうが下地での目摺りが必要になり、重くなるのではないか?
トーカイの目の粗い布は、糸として締まりがない分、隙間の多い布なのか?今作っている冊子箱、特に作り直した蓋は、狂わないよう用心したとはいえ、余にも重い。
2枚と5枚の差はどこにあるのか?
布の重さは無視できるほどだということか?
布は貼りながら余分なところを切り取るので、重さを量ったことはない。
軽い理由は、下地を使う量にあるだけなのかもしれない。
あまり意味のない造り方?(4.27)
いろいろ展覧会を見に行きたいとは思っているのですが、時間がない(本当?)。
午前中、高岡短大の蜷川教授退官記念の同窓生作品展を見に行く。
蜷川先生とは、乾漆を後藤先生に少し教わった頃、短大を訪ねたとき、二人で囲碁をしているとき会ったのと、一昨年の漆を語る会で少し会ったぐらいで、直接の知り合いではありません。
見終わったとき、名前を書いてくれというので「小矢部市」と書くと、遠くから、、、
名前を書いても、知らないようでした。つまり、このホームページを読んでないということです。
卒業展がいつか分からなかったので、今年は見ることが出来なかったと話す。斉藤さんの家に行くも不在。息子さんに漆刷毛の種類のパンフレット、支部展のチラシと招待ハガキを預ける。
高岡市美術館の「高岡市民美術展」に行く。
中学校の同級生の木藤さんの絵があるかもしれないと行った訳です。
地下の駐車場でバックするとき、はっきり分からない。
外につながっているとはいえ、地下である以外にも、薄ら寒さを覚える。
洋画は、似た雰囲気に似た表現ばかり、何だこれは!
異色な感じで、いつものように荒っぽいタッチ。見た感じは柔らかい。
奥行きというよりは、上へゆったり広がっていく感じ。
描き方は、白に緑など徐々に濃い色を重ね、藍の山並みへと、多分空間を生かす表現なのだろう。
尤も、同級生でないなら、気付きもしない絵かもしれないが、、、
親同士がまた従兄妹位の血縁関係があると知ったのは20年程前。まだ11時頃だったので、吉川さんのところに寄り、刷毛の種類のパンフレットを渡す。
漆に携わるものの共通点、いろいろ刷毛が欲しい。
そのうち、旭さんが吉川さんに頼まれたらしい仕事をもって来た。
3人とも「泉清吉」刷毛を持っているが、、、(先代、先先代も含めて)
Mさんなんか、神棚に飾っている、、、使わないと意味がないのに。
夜、人生二回目のファックスを吉川さんに送ってみる。
少し前、漆を語る会から「やさしく身につく漆のはなし」その3が送られてきた。
1年程前に日本漆工協会から発行されていたらしい。その1、その2も持っている。
まだ少し読んだだけだが、変だと思う記述が幾つかある。
「ラッカーゼが空気中の水分の中から塗膜中に取り込んだ酸素と主成分のウルシオールが次から次へと結合して乾いていく。」別のところでも見たことがある表現だ。
空気中の水分から酸素を取り込むことが可能なら、同時に水素を発生することになる。
漆で水素自動車?
「東洋漆工史」(六角紫水著)からの引用が載っている。
仁和寺の冊子箱が、荒布四枚を重ね貼とある。
中里さんの解釈と違う。厚さ3ミリになるには布が四枚必要なはずだと判断し、そう解釈したのだろう。
壊してみなければ、どちらが正しいか分からない。
私の場合、2枚で可能かどうか、挑戦しているだけで、再現を目指しているわけではない。
壊せば分かることを論争しても仕方がない。
どちらの説でも、可能なら、それで十分ではないか。
乾漆技法の真似事でも気に入らないことが多い。
糊漆の1:4の比(粉:水)はそれでよいが、水分をできるだけ少なくした方が良いという説明は何なのか。
水分が多ければ柔らかい糊になり、厚く付かない。膿みにくい。
適正な水分が良いと説明すればよいのだ。
3枚を一度に貼っても、仕上がりに差がないとはどういうことだろう。
糊漆は膿みやすい。布目の隙間が残りやすい。動きが収まりにくい。水に弱い。
寒冷紗を使うというのも、説明不足だ。
芯まで漆が吸い込まれる木綿を1、2枚使うのは素地に変化をもたらすので、必ずしも全面的に否定するには及ばないが、あくまで麻布の補助に過ぎない。
自分の専門のことはいろいろ気付くが、知らないことは逆に感心することが多い。
入門なら、この程度で十分なのかもしれない。
一度体験すれば、物足りなさを感じる。そこから自分の道を目指していけばよいのだろう。かなり前に読み終わっていたが、書いておかなくてはなるまい。
利久なんていう字を使うと、休と合わなくなってしまう。(4.21)
2月25日(火) 中野先生の技術伝承講座「蒔絵」(2.20、21、23)
自分に必要なことは、大体ノートに纏めたので、細かいことは省略する。
作り手として一番知りたいのは、技術であろう。
蒔絵は、10年近く前、スクールで習っただけに等しいので、かなり忘れてしまっている。
カルチャースクールで教えているそうで、蒔絵の素人にも、上手に対応して下さる。
変り塗りの手板、野菜の切り口を利用したり、不完全燃焼の煙を利用したり、すごいものです。2.23
20日は高岡市デザイン工芸センターまで、東に約7キロの道を歩いていきました。
もう少しで着く頃雨が少し降り出したので、少し走りましたが、1時間1分かかり、汗だらけでした。
タオルを貸してあげるというので事務室へ向かっていると、ちょうど中野先生が入ってこられる。
初の個展の苦労やその日の話(講演)をどうするかなどと、センターの人と話したり、、、
大場先生の所へ行くまでのこと、大場先生に弟子入りする時、「飯は食えない、それでもいいか」と何度も言われた話、夜逃げの話、写生は植物図鑑のようにするべきといわれた話、大場先生の作品制作に集中する姿(徹夜の連続−寝ていないのではないか、、、)、初出品の藪手毬箱の図案を60枚ほど画き直した話(雨山先生、なかなか見てもらえなかったが、見たらこんなもんと、ポーンと放り飛ばし、、、最後には、にこにこ顔に、、、)、、、
大場先生が語ったことがある武勇伝が全てでてきはしませんだが、師匠と弟子、お互いによく観察しているようです。
松田先生から、1.日本人でなければ出来ないことをしなさい、2.漆でないと出来ないことをしなさい、3.中野君でないと出来ないことをしなさい、といわれたそうです。
廊下を歩いている時の話ですが、テレビの「千年の技を…」でもう10年作られていないといっていたくろねずみの蒔絵筆を2、3本松田先生宅からもらって持っているが、使わないことにします、、、
あれだけ実績のある方でも、初の個展(松坂屋本店)、まだ駆け出しの扱い。伊勢神宮の式年遷宮で2回、東大寺ので1回。古い作品に接する機会もほとんどなく、「日本の文様」(光琳社)を参考にしているそうです.
信貴山縁起絵巻が一番好き。話の始め方、盛り上げ、、、雲や霞で話を転換する、、、見る角度、、、
立体的な表現ができる。甲から側面を回り、また甲に戻ってくる。身の手前の側面とその向こうにある内側面とが離れているのを利用したり、、、
水をテーマにしようと始めたが、波などを生かす形が必要、、、
懇親会は庄八。これがあるので歩いていった。10年半前、イネスさん、ジャンさん、Tさん、Kさん(札教)、Kさん(田舎舘)、Jさん、Nさん(東京)、Mさん(宝塚)、、、十数人での懇親会があった店なので場所は知っていた。
個展のことやM越の場合は1000万を保証しなければならない(図録などもすべて個人もち)こと、、、
私は、持論の指し物木地の出現と布貼りの関係、乾漆の誕生を喋っていた。
2年前の山下先生のときに飲みすぎたので、今回は抑えた。21日は、車で行く。
材料の扱い方の説明。卵の薄皮のむき方。
白蝶貝の裏に彩蒔絵をして貼る。
貝や金属の打ち抜き法。貼るタイミング−置いて少しだけずれる感じ。
平文のなじませかた-大きい面は僅かに膨らんだ感じに作る。
連続して仕事を進める手順…貼る(平文、貝)。卵。蒔く。蒔き暈かし。
白漆で上塗りした、月と兎の蒔絵の説明。細かい点は、よく理解できなかった−蒔絵が専門でないので。
蒔絵前の下塗りの色で金の発色が違うから、テストピースを作っておくとよい。蒔絵実習。弁柄漆を泡が吹くまで加熱(焼き漆)。
樟脳を漉し紙の上に載せ、焼き鏝で加熱すると、下の皿に細かくなった樟脳が落ちる(溶剤)。
置き目の線は、できるだけ細く描く。
ティッシュに余分の置き目の焼き漆を吸い取る。
手板に置き目を写す。
チタニュウム白を掃きかける。23日。変わり塗りの手板を見せてもらう。
絞漆は、混ぜるタンパク質によって柔らかさが違ってくるので、いろいろ確かめてみる。
塗ったものに何かを蒔く。揮発性のものを垂らす。
漆を揮発性のものに溶かし、水の上に落とす。それを写し取る。
・・・蒔絵実習。卵殻は、図に拘らず、全体として立体感のある感じに並べればよい。
蒔き暈かし。周囲から毛房で掃きかける。上から離して蒔く。「教えるのではない、教えてもらいに行くのだ。」
これは、「稔るほど、頭を垂れる稲穂かな。」という意味もあるだろう。
カルチャーセンターで、プロなら思いつきもしない金粉の組み合わせに出会うということもあろう。
どう対処するかと考えたり、工夫したりする機会に出会うということもあろう。
(長くなったので、これくらいにします3/5)
列品解説がある日のうち、輪島へ行けるのは今日9日と来週の16日しかない。
この3日、10℃を超える日が続いている。
昨晩飲み過ぎたのか、起きようと思った時は、9時を過ぎていた。
連休、冬とは思われない気温、今日行くしかない。
10時少し前に出発。地元のJAスタンドで給油。アルトに27リットル。
津幡経由、白尾インターで能登自動車道、210円、210円、310円。
2時間弱で輪島、少し早すぎたので、橋久へ実に久し振りに行く。
青砥はほとんど無くなっていた。屑のように残っている中から、加工し易そうなのを選んだ。
採算が取れないから、石を取り出すことがなくなったそうだ。
丸い棒状の砥石は、売れないから仕入れていないとのこと。
鯨箆は2,000円ほどだというので、買わず。
人工砥の内、地研ぎで傷がつきにくいと、輪島で売れているという砥石を買う。
1250円+青砥の残り200円が今日の買い物。そのまま漆芸美術館に行き、2階に上がり、展示室に入ると、見たことがある顔。
自分の予定では、美術館の人と昼食でもとっているはずの、今日の解説の市島先生。
私の事を知っている、数少ない先生の一人。
展示を一通り見て暫くすると、解説の1:30pm。
大場先生が富士を画けなかった話−慾があった…富士心神、日本心神…自分の描きたいように、、、
磯井先生の緑を作る話−いろいろの顔料を混ぜ、自分の欲する、、、
前先生の彫り暈かし−誰かが真似てみても届かない、違うのは品格の所為。
太田先生−写真を見て想像するのと、実際の大きさの違い…小さくても大きいと感じさせる、、、
北村先生−自然から学ぶ、人から学ぶ、作品から学ぶ、、、春日大社
大西先生−褪色しない黒を作れるようになった。黒と朱溜めのバランス、、、
坂下先生の漆皮に関して、やっと狂わないのが出来るようになったと話していたとのこと。
坂下先生の家で見せてもらったのは、端の外側で、紐で引っ張って熱処理をするというものだった。
今回の作品は、鍔というか、端が90°外に折れて出ている。
その曲がる所で、裏から押さえつけるものが無い限り、皮を引っ張ってもキチンとした形を残さない。
技術的には、狂わない以上の高度なものがある。
(後日記述:この部分は曲げ輪だそうです)輪島へ行っても、知っている人はあまりいない。
向こうも分かる人はOさんだけだろう。こちらが知っている人も少ない。
E端さん−「千年の匠の技を、、、」でも出ていた。 I波さん。
もう一人顔は知っているひと、2年前、黒部駅から戻る時、前先生と一緒にいた感じがする人、多分有名な人なんだろうが、名前は分からない。
輪島へ行ったときよく見かける背の高い外国人の方、地元の人と話しているのが耳に入ったのだが、イギリスから来て12年になるらしい、流暢な日本語を話されていた。
我ながら、本当に狭い人間関係だと呆れてしまう。同じように見える作品を作っている時は、熟成期間だと思ってほしいというようなことを解説しながら語っておられた。
自分のやりたいことを熟成させていくと、いつか華が開くときが来るということだろう。
何時になっても熟成しない人がここにいる?
「形と言っても、そんなのなかなかないしなぁ」とT先生がふともらされたのを傍で聞いたことがある。
あるイメージから出発しても、品格のある形を追及していけば、大体同じようなものに収斂していく。
だから、工芸会の作品は同じ感じになってしまうのだろう。
単に真似たものと、自分の理想を追求していったものと、どこか違うはずだろう。
それが見分けられる眼力があれば良いのだが、正直言って、無い。
可愛い感じの作品、物真似と言うか、傾向を読んだ作品、、、何をすることが必要なのだろう。(2/10)
「千年の匠の技を伝えたい」という番組が、7:30pm-8:45pmに放送されました。
輪島塗の道具が手に入らなくなっている現状を伝えていました。
1月4日(土)に全国放送されていた番組のもとになっているもののようです。
そのときの『蒔絵筆』の部分が、ほんの少し省略されてはいましたが、黒ねずみの水毛を使った筆が10年間手に入らない、中国で探しているなど、同じ内容でした。駿河炭。東浅太郎さんは81才で、弟子を3人採ったそうです。弟子といっても、私と同じぐらいに見えました。
40年以上の、目の細かいアブラギリを焼くのだが、火をつけて3時間ほどで400℃にもっていく、そのとき酸っぱい臭いがするそうですが、それを嗅ぎ分けるのはなかなか難しいようです。
3日焼いて、炭を取り出すのだが、煙が薄紫になり、臭いがなくなったときがそのタイミングらしい。
しかし、弟子の方は少し遅れたようで、炭が細かく割れていた。
その最後の決め手をつかむことが、どんな仕事でも、大変難しい。吉野紙。昆布尊男さん51才。私がTさんに紹介してもらって、電話して美栖紙を送ってもらった一夫さんの息子さんなのだろう。
楮の繊維のうち長いものだけを使うよう、麻袋に入れて、川で洗う。
この2年間、作った吉野紙が売れずに残っているそうです。
塗師の皆さん、出来るだけ吉野紙を使うようにしましょう!伝統工芸に含まれる技には、貴重なものが沢山あるはずです。
漆の分野では、乾漆とか蒔絵とかは、学校や研修所で教えているので、それなりに続いていくでしょう。
木地や下地は、かなり危うい。
道具の分野は、今日の放送のように、それこそ地球上に一人しかいないとさえいえる。
蒔絵で言っていたことは、腕をどれだけ上げても、1mmに5本の線が描ける黒毛の筆がないとどうしようもないということだ。技術と道具がうまく出会って、伝統工芸が生きる。今日は、高岡デザイン・工芸センターに研修会の申込書を持っていき、置いて来ました。
「龍の門」で「くらしに生きる伝統のかほり」展。斉藤慎二さんの「ひとり酌」が大賞。
物を見てもあまり感じることがないのは、自分の感性の無さの所為か?
DIYタテヤマの高岡南店(ジャスコと同じ敷地)に初めて行ってみる。自転車のチェーンが切れたのを修理しようかという思いをずっと持っていた。沢山の部品が置いてあった。
野村店にいると思っていた竹ちゃんがいた。暫く話す。業界には未来が無い、、、
午後からは、今日の番組を録画する為、ビデオテープを買いに行ったり、本当に仕事をしない。
インターネットでちょっとしたことに出会うと、すぐにお気に入りに追加するか、ホームページの自分の都合のいい場所に勝手にリンクを設定しています。メモ代わりです。
暇だったので、お気に入りにしていたのをサラサラ見ていき、気になったのをインターネットで見たみた。
多分、asahi.comで見つけたと思われるのにつないでみた。
国立国会図書館の関西館、電子図書館。リンクのページに載せておきました。
以前は利用の仕方が分からず、そのままになっていました。ダウンロードし、再起動の代わりに翌日また電子図書館に行きました。「漆」で検索しました。一つを選びましたが、その先がどうするか分かりませんでした。本文というのをポイントすると、手のひらマークに変わりました。「製漆法改良並ニ漆液改良報告」工業試験場技師 三山喜三郎という方の明治38年の報告です。
パソコンで読むのは苦手ですので、印刷しました。今度は文字が小さすぎましたが、近視ですので何とか読めました。「捷徑」なんて知らない字もありました。敏捷という字が連想でき、何とか辞書を繰ることが出来ました。抑々漆液ハ我邦ノ特産物ニシテ上古ヨリ盛ニ塗物ニ応用セラレ今日ニ至レリト雖モ其製法ノ単純幼稚ナル殆ンド他ノ工業ニ其比ヲ見ザル所ニシテ・・・
関係ない話だが、縄文時代の漆の出土品に同じ発言を繰り返す学者なるものに読んでもらいたい報告書だ。結論だけを簡単に書き出しておこう。詳しくは、インターネットで見てください。
「なやし」…摺リ交ゼ、摩擦が主眼で、塗り肌・光沢に影響する。
生漆の粗漉しをしないままの方が、摩擦を助け品質を良くする。約2時間。
「なやし」と「くろめ」…くろめは熱を加えるため、漆液の流動性を増し、攪拌を続けても摩擦の目的は果たせない。なやしを兼ねる事は出来ないし、順序が逆でも駄目である。
「くろめ」…水分の蒸発が目的。40分から1時間で、40℃−45℃に温度を持っていき、約2時間。3%ほどまで。
くろめに時間をかけすぎると、酸化し光沢を損なう。
*季節、生漆の性質に応じて、手加減を施す。
*製漆が完了していれば、高温にあっても乾燥する。(二十九)
*漆酸(ウルシオール)に関しては(二十八)を見て下さい。
「漆酸の乾燥剤」(二十九−)…これに関して、私は現在聞いたことがない。厚下地などに応用できるとあるが、誰もしていないのだろうか?何か不都合があったのだろうか?
*明治38年の研究から進歩したのは、ウルシオールの構造を決定したことだけなのだろうか?