漆の話
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[遺跡] [朱漆 乾漆の出土品] [漆かぶれ] [東北旧石器文化研究所問題] [japanと漆] [漆塗りは何故 中国で発展したのか]
2000年11月14日 漆塗りは何故 中国で発展したのか
Japanese
are said to be poor at creating and good at improving.
ビデオ「縄文うるしの世界 青森県三内丸山遺跡’98」(完結篇)
(9月3日 遺跡 の項参照) を久しぶりに取り出したのは、
鳥浜貝塚の、薄い板に穴を刳りぬいた器を見てみたかったからだ。
厚さ10mm程で、幅は40〜50mmの薄板に、両側に3mm弱の厚みを残し、
中を刳りぬいている。漆も使用されている。
1987,1988年頃、桜町遺跡で出土した朱塗り片口の木片の厚みも5mm程のまま
底の方へ向かっている(底は残っていない)・・・刳るだけで作るより、底を別の板で
作り嵌め込んだほうが楽ではないかと感じた。
日本では木工の技術が特に優れていたと言える。
漆が単なる塗料でなかったのは、生産高が少なすぎたからかもしれない。朱への思い
から、塗り物へと中途半端に進んで、そのままだった。
石器、土器、木工、漆だけのような日本と違い、中国には青銅器や鉄器もあった。
そうした刺激が漆に新たな表現をもたらしたのだろう。色漆、指し物木地、麻布・・・
正倉院御物が大きな刺激を日本に与えた。塗りで遅れをとったが、
工芸材料の豊富さが蒔絵への道を作った。
日本の木工が、刳り技術で極度に発展した為に、建築物を除いて木を組み合わせる発想が
生まれなかったのかもしれない(紐で結ぶのは指し物ではない)(編み上げの壁は桜町で出土した)。
漆の出土品から考えて、朱を中心にした加飾や木地の保護が漆の役割だったと言える。
漆の可能性は萌芽のままだった。織物の場合、染めを意図的にしていたのだろうか。
Were they aware of the beauty of textiles ?
金属で器を作るためには、土で型を作る必要がある。この事も乾漆の誕生に役立った。
刳り技術に極端に拘るのではなく、自由な眼や発想が指し物を生み出したのかもしれない。
模様に使う材料も豊かであった。中国では、何か一つの事柄にとらわれるのではなく、
総合的に社会を動かす考えや力があり、その下で工芸品が作られていったのだろう。
1994年7月2日(土)高岡漆器青年会で奈良へ他産地視察に行ったとき、正倉院の
木村法光氏にお話をしてもらう機会があった(山本哲さんにお世話になる)。
そのとき、平脱・・・金銀の薄板による文様は剥起しで・・塗り立て仕上げ・・
平文・・・文様は、研ぎ出しによるもので・・本体は蝋色仕上げとなる。
との自説を述べられた。塗りの技術で、蝋色仕上げは文様をどのように出すか
という事から考え出されたものと言えるのではないか。
Perhaps
we should have to feel the sound of the wind from outside.
2000年11月10日 "japan"
と「漆」
Some
people say proudly that "Japan" means 「日本」 and
that "japan" means 「漆」 or 「漆器」(Japanese
lacquer).
Evidently this comes from MATSUDA Gonroku , the most
famous URUSHI artist in Japan.
In
「うるしのつや」(日本経済新聞社) he wrote
about the episode he had experienced at 東京美術学校.
Then he asked many schoolmasters who had come from
various parts of Japan
what JAPAN and CHINA meant. Some of them answered the
latter meant ceramic manufactures ,
but no one could answer what the former meant. He
stopped his talk and stepped along..
・・・ポルトガル人は伊万里焼をたいへん喜び、大量に輸入しました。また塗り物、漆器もそうです。
漆器はヨーロッパに全然ありませんでしたから、日本の漆器に初めて接触するポルトガル人が
漆器に「ジャパン」、つまり、日本という名前を付けたわけです。今はそういう呼び方はないです
けれども、十九世紀まで残っていました。ジャパンというのは日本あるいは漆器のことだったんです。
(「世界の中の日本文化」ドナルド・キーン 富山県民生涯学習カレッジ 平成四年)
G.
Matsuda was born in 1896. So what he thought is not wrong. Now
that approximately a hundred years have
passed , we must appreciate what Donald Kheen(Columbia
University , New York) said.
2000年11月8日 東北旧石器文化研究所問題
インターネットの朝日新聞によれば、毎日新聞の報道で、自分で石器を埋めたと告白せざるを
得なくなったようです。良心の呵責に耐えかねて、ではない?
「文化」と言いながら、道具である石器ばかり見ていて、それを何のために、どう使ったか、
どのようにして石を加工して石器にしていったり、何を考えて工夫したのか。人間の生が何処にも無い。
(言わば、日常の料理を作ったことも、作る気もない人が、
石器を手にした途端に、石器時代の一流の料理人になってしまう怪である)
石器は専門外なのでここで話は止めるが、漆に関しても事情は大して変わりない。
小矢部市の桜町遺跡から出土したと言う縄文晩期の朱塗りの櫛が弁柄であるということは、
桜町の漆の水準が極めて低いことを示している。(日本全体に関してはよくわからないが・・・)
その頃、中国では粒径の違う辰砂を使い分けていたそうである(「古代出土漆器の研究」p135〜136)。
単に水銀朱(辰砂)を使うことと、使いこなす事には大変な差がある。
漆を実際に扱ったことがある者には、常識であることを、
「学者」とかマスコミは決して認めようとはしない。
ひたすら同じ言葉を繰り返す。「祭祀に使われたのだろう」
どういう心で朱を使ったのか、なぜ辰砂の朱を求めるようになったのか、
そういう生きた人間の文化には関心がなく、
自分の解釈を主張しているだけな事に気づかない。
They perhaps have much knowledge about older ages
such as the Stone Age and so on
and old things. As for Japanese lacquer, they only
have shallow understanding. Cinnabar
and Japanese lacquer from which the water is almost
removed by heating are the key to
understanding. Analogizing from their knowledge of
URUSHI , they apparently lack understanding the truth of
doings of humankind. So the history made by them may
be a sort of scissors and paste.
2000年10月12日 漆かぶれ
漆の仕事をしていて、かぶれることは余りありません。
20年以上たつウルシノキから週1回漆を採取しています。
8月頃から、彫刻用の鑿で幹を削っていると、急に痒くなったり、
翌日、左腕に黒い点々がついていたりで、痒くて仕方がありませんでした。
大西先生が高岡で講演されたとき、二日酔いのとき生正味漆を舐めればよい
と話されたので、時々舐めていました。ピリッとする感じです。
真夏の漆は、最初木の香りがして甘いが、そのうちに舌に染みてきました。
1週間も黒いままで、唇の一部が硬くなっていきました。(免許証の写真)
盛漆を身をもって体験したわけですが、9月中旬になると漆も少し水っぽい感じ
になり、木っ端にかぶれることもなくなりました。
僅かに取れた生漆は、真夏の天日で素グロメし、今年の日本伝統工芸展の
「乾漆水指」の朱に混ぜました。
9月20日に増村紀一郎先生に、比重の重い本朱は粉の比を多くする方が良い
と教えてもらい、後からの漆も天日素グロメして本朱と混ぜたところです。
2000年9月18日 乾漆の出土品について
「漆芸品の鑑賞基礎知識」(至文堂)p153〜p156 (東京国立博物館 加藤寛氏)
「興福寺国宝展と乾漆について」(漆を語る会1997春セミナーのビデオ 加藤寛氏)
「よみがえる漢王朝」(読売新聞社 1999)図41など
著作権法上の問題がありますので、写真は上記のもので見てください。
2000年9月15日 朱漆
太陽の力を現すためか、内から湧き出る力を現すために、朱の線が使われた。
朱に漆が結びつくことから漆塗りが生れた。朱を生かすために黒漆が使われるようになった。
祈りが込められた模様を付けるようになり、中国では、色漆、金属、螺鈿、玉石などが使われた。
正倉院御物へと連なる漆の流れが、模様の凹凸を小さくするため、金属を粉末にし、蒔絵が生れ、
研ぎ出し蒔絵となって一つの完成を見た。漆の歴史はこのように概括できる。
最初に朱を求めたところから出発し、新たな漆表現の歴史を始めることができるなら・・・
HgSの朱漆に拘っていきたいと思っています。
2000年9月3日 遺跡
遺跡から漆の品が出てくると、決まって「日本最古の・・・」とか「高度な技術が・・・」と報道されます。
弁柄の朱から辰砂の朱の出現まで数千年かかったことの意味を考えてみる必要があります。
辰砂の朱に憧れて、粉っぽいのを艶がある朱にするまでの道は、かなり遠い。
素グロメ漆と出会い、弁柄のように少し混ぜるだけではだめで、十分練り合わせる必要があります。
質的に変化した漆を使いこなすという技術革新があったのです。
物の交流とは違い、高度な技術はそれまでの技術を凌駕します。
古い時代の塗料=漆と短絡的に捉えるのではなく、辰砂朱の伝播を追うべきでしょう。
訂正 (2000年11月14日)
久しぶりにビデオ「縄文うるしの世界 青森県三内丸山遺跡’98」(完結篇)を見て、
田鶴浜の遺跡の名が「三引遺跡」と気づいた。新聞の切り抜きがあったはずだと探した。
読売新聞1997年8月8日(金)に、石川県埋蔵文化財保存協会7日発表として、
三引C・D遺跡から、約六千年前の縄文時代前期初頭のものとみられる漆を塗った
日本最古のくしが出土した、と載っていた。
どこから「真脇」という地名を思いつたのか不明だが、訂正します。
(11月30日NHKラジオで墳墓の出土のニュースでMAWAKIといっていた・・・)
(12月1日能都町に真脇遺跡と新聞に載っていた。存在はしていた。
しかし、「最古」と書いたとき、田鶴浜のことを思っていた。)
このニュースの後も、各地で日本最古・・・が続き、もっと技術の進歩を
論理的に辿るべきだと考えたわけだ。
個人的に考えても、塗り一つとっても安定した技術に到達していない。
技術の伝承から考えても、油断すれば、すぐ消えていってしまう。また新しく作り出した
としても、再現でしかないだろう。本当に新しい進歩は何によってもたらされるのか。
このことについて、日中文化の比較を通して考えてみようとして、
昨年夏クロスランド・オヤベで開催されたビデオ鑑賞会の後、そこで販売していた
「縄文うるしの世界」を買い、所有していたのを久しぶりに取り出したわけだ。
この件は11月14日のところに書く。
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