[18回漆芸展 螺鈿 展覧会 横山善一先生] [水銀朱と蒟醤の色漆 山下義人先生]
[これからの伝統工芸 嶋崎丞先生] [大場松魚先生の研究会] [高岡漆文化セミナー]
[津山昌の眼展] [48回本展] 〔秋の展覧会〕 〔工芸作家連盟展〕 〔金森先生〕
《漆の話へ》 《2002年版へ》 《2003年版へ》 《2004年版》
(1992年9月9日水曜日・・・偶然、古新聞の中から見つけました・・・2001.12.29)
11月25日午前11時20分に、彫金の重要無形文化財技術保持者(人間国宝)の金森先生が93年の生涯を閉じられた。
1991年4月の、富山県民会館での「金森映井智回顧展」で、「喚鐘」を打ってみてくださいと会場の人に声を掛けられたので、自分が打ってみた。よく響いた。その年の6月の「富山支部展」に初出品したのだから、全く関係のないときの出来事。
何年かして、支部の会員にしてあたり、吉川さんもそうなった後の出来事。支部の新年会も終わりに近付いた頃、支部では若手に見える(!!!)二人の方に近寄ってきて、「良い作品を作っていきましょう・・・」と声を掛けて下さったことが、二年続いたことがあった。奢るところなく、穏やかな人という印象。
支部での挨拶では、「皆さんには釈迦に説法ですが、、、」と前置きされて、何かを思いついた時メモを取るためいつもメモ帳を持ち歩く、、、 、、、 、、、 色々な心構えを話された。
作品を前にすると、腰の線の力が消えていってしまっているとか、急に厳しくなる。
吉川さんが高岡工芸で習っていた時は、「だらアンマに教えておられん」と教室を出て行かれたこともあったとか。
物作りには、真摯な気持ちで向かわれていた。
27日に通夜、28日に葬儀、告別式。ご冥福をお祈りします。
10月27日 富山県工芸作家連盟展 −連盟60周年記念−
無料駐車場が空くのを待つのは疲れるし、天気も良かったので、自転車で福岡駅まで行き、列車を利用した。
富山県民会館美術館まで歩く。
工芸というからには、技術というものを感じさせるのは未熟だということにしかない、技術があるのが当たり前という前提で出発する。
クラフト展を別にすれば、日展か伝統工芸展かに分かれる。
単純に見れば、大きいか小さいかの差になる。
縮小したり、拡大したりすれば、同じものになるなら、表現として切実感のない、いい加減なものとしか言いようがない。
マスコミが日展偏重、特に富山県でその傾向が強いのは、灰野秋郎先生が問題があると言いたそうだった山崎覚太郎の出身地であるからだろう。もう一つは、様々な分野を総合して含んでいるからだろう。
受賞作家が常に良い作品を作っているとは限らない、と感じた。
蒔絵が日本画への劣等感の表現であってはならない。
工芸か彫刻か。工芸というものは、いつも危うい性格を持つ。
美的に通用しないから工芸、技術で通用しないから絵や彫刻(抽象的な感じの)では、話にならない。
井波の作家が優しさを感じさせるのは、木という素材を活かしているからだろう。
美的な感動というより、対比とか、流れとか、技巧ばかりが目立つ気がした。
一応、出品者の一人だが、反省すべきだと感じた。
金工の中村喜久雄さんの「青空のみえる風景」は、何か鍾乳洞が出来ていく過程であるか、逆に氷でも溶け出していくような印象を与えた。作者とは別の印象をもつことは許されるだろう。こういう作品こそ「時間の流れ」を表現しているのだと思う。
朴木立堂さんの「悠遊」は、下の木目を生かし、鯉が餌の周りにのんびりと集まるような、優しい感じの作品であった。
10月15日 秋の展覧会いろいろ
「須賀松園三代 −高岡金工の技と美−」(高岡市美術館)
二代松園の、壁を境にして新しい世界が始まるような感じが面白かった。
「用と美の工芸展」(工芸の会「輪」 富山佐藤美術館)
六角形を生かせば面白い。緻密な技術を生かすのは、おおらかな図。
「京都画壇11人の巨匠たち」(富山県水墨美術館)
竹内栖鳳、上村松園、西山翠嶂、堂本印象、福田平八郎、
徳岡神泉、小野竹喬、山口華楊、上村松篁、池田遙邨、秋野不矩
自分にとっては、絵を前にして動けなくなるような作品はなかった。
展示室が二つあり、各室で一番ほしい絵はどれかと考えた。
「牛買い」(翠嶂)地に脚の着いた重さを感じた。
「白い馬」(華楊)濁りのない透明感のような気品を感じた。
細かく着色してある絵を離れたところから見ると、混色され、生き生きとしてくる。
油絵のような効果が日本画でも出てきたのは何時なのか。
「長谷川塑人の大皿展」(石川県津幡町 美術茶房 古楽屋)
図案日誌でアイディアに行き詰まったら、1年前とか2年前の図を直しても良い、、、
9月28日 第48回日本伝統工芸展で上京(9月26日)
9月26日(水)に漆芸部会研究会が開かれた。題もそうすべきだろうが、マイク(スピーカーも)が無かったので、声がよく聞こえなかった。
50回記念展に向けての話が進んでいて、賞が増えるらしい、、、
部会展が20回でなくなるというふうに聞こえたが、聞き違いかもしれない。鑑査をした学識者の意見として、蓋の扱いにくい物が多かった。博物館にある国宝など、「舟橋蒔絵硯箱」を除いて、全て扱いやすい。もっと冒険をするように・・・ということが市島先生から報告された。
入選するには、無難な仕事をしておけば入りやすいとはいえ、それだけではいけないような、、、学識者として、河田先生(帝塚山大学教授)、小松先生(東京国立博物館工芸課長)、灰野先生(奈良大学教授)が鑑査に参加されていたらしい。それなら8月24日の「漆を語る会」のノミニケーション(ニューオータニ高岡)で灰野先生に挨拶に行っておけばよかったと、すぐ俗人の顔を出す。
朝5時47分頃、自転車で出発。4kmを、汗を余りかかないように20分弱で、福岡駅に到着。普段しないネクタイを締めてから、6時12分発の列車に乗る。「はくたか1号」、「あさひMAX2号」で、9:55東京駅着。歩いて日本橋三越本店に行き、7Fの会場へ。
漆芸作品を並んでいる順に見始め、やおら自分の作品がどこにあるか見渡した。朱が目立った。また順に見続けた。鳥毛さんや岸本さんの逆光的な表現が印象に残った。寺田さんの金と銀の対比が力強くてよいと思った(大場先生の説得、、、)。11:15am頃になったので、図録を二冊買う。三越前から地下鉄営団半蔵門線に乗り、大手町で丸の内線に乗り換え、池袋へ行く。芳林堂の前を通り、西口公園に12時頃着くと、駅の方から右手を上げてやってきた。夏はバイクが秋田で故障し会えなかった子と4ヶ月ぶりに会う。小さくなった感じで、白髪も目立つようになったとのこと。昼食を「立山」でとる。マスのすしと図録を渡す。少し一緒にいて昼休みが終わるので帰っていく。
西武で「漆光会」展をみて、丸の内線、銀座乗り換え(180m)、浅草着2:15pm過ぎ。倒産し、人手に渡ったはずの5階建てのビル。少し前まで日本一の大シャッターという事で、はとバスが止まっていたとあの当時聞かされていたのはどれだったか。今年はたぶんあれだったろうと見当がついた。3年前、「ポロ」という喫茶店がなくなっているのを知った。ターザンは?エレベーターを降りると山本哲さんがいた。漆を語る会、、、「武蔵川さん、高瀬さん、、、」と次々に出てくる。泉さんのホームページで見たので、友達ですかと聞くと、そうだとのこと。顔の広い人である。林先生とも。
1994年高岡漆器青年会で奈良へ行った時、山本さんにお世話になる。樽井さん、北村先生宅(奈良に行くことしか知らなかったので、格式のある建物の表札を見て驚いたものだった)、木村法光さん、、、その秋、高岡へ講師として山本さんを呼んだ。そのとき「正倉院展」の図録を持ってきてもらった。1年前、久しぶりに会った。
今回の入選で高岡の吉川則行さんが日本工芸会の正会員に認定された。
坂本さんという方も認定されたが、50歳で漆を始め、7年かかったと挨拶していた。すごい人だと思う。伝統工芸展を始めるのが遅いだけなら、いくらでもいるだろう。作品の説明をするとき、「時間の流れ」を表現したいという人が多い。どういう意味なのか、よく分からない。完全に模様化するか、表現法自体を目的とするのでない限り、どんなデザインでも空間性や時間性を持っている。どこかにあるものが、今ここにあるか、過去か未来か、、、このように見える物の背後に、過去とか未来を連想させるストーリーを含んでいる、、、
「時間」などと抽象化するのは、そうすることによってより深い論理を作り出すためか、作家ならそういうテーマで作品作りを続けるためであろう。
そうではない時に、わざわざ分かりにくい言い方をするより、光の移り変わりに面白さを感じ、それを表現してみた、、、とか何とかの方が、聞く人にイメージが湧きやすいのではないか。18回漆芸展(部会展)の図録の解説のために電話を2度にわたって頂いた大西先生に挨拶しておかねばと思っていた。そのためにも、本展に入選したいとは思っていた。作っている時は、淡々としていたが、、、
タバコを吸う場所で見かけ、「富山支部の、、、」。すぐわかってもらえ、握手してもらう。雪道での運転の話など。そこへ前先生も来られ、あの後、高速バスで記録見本を届けられたとか。
会場の建物を出て、ニ天門付近の交差点で、岡村康子先生が「ホームページ見てますよ、、、」と声を掛けてくださる。「どうして、、、」(これには、どうして見つけたかということと、どうして砂田だと分かったかと二つの意味がある。)三越に戻り、小柳先生を見かけ、自分の作品について聞く。
身の形はよいのだからそれを生かすべきだ。その邪魔にならないよう蓋はもう少し下に下がっている方がよい。
つまみは、蕊をイメージするとか、もう少し工夫がいる。もう少しというところ、、、会場を一回りして、もう1冊図録を買い、東京駅八重洲中央口に向かう。
6時の約束に数十秒遅れて着く。八重樫君の方から近づいてきた。会うのは3年ぶりになるだろうか。
八重洲地下街で飲みながら、作品の話、走る話(駅伝や人の様子)、ホームページ(仕事)、子供、お互いに本当に細い線の繋がりで新しい旅立ちをした、、、
福岡駅より自転車で家に着いたのが0:10頃。
9月18日 現代美術と伝統工芸 (「津山昌の眼展」 砺波市美術館)
9月16日(日)午後から砺波市美術館へ「津山昌の眼展」(9/8-10/14)を観にいった。
常設展示場で「高瀬孝信展」(裁金)をやっているというポスターが貼ってあった。
津山昌さんは小矢部市芸術文化連盟の会長などをなさっていた方です(1992年没)が、個人的には面識はありません。KNBラジオに出演されていたので、名前はよく知っていた。
利喜夫君の家が、西中の願称寺の檀家なので、たぶん亡くなった後だろうが、話題になったことはあった。
父が東大、当人が京大、子が東大だとか、北日本新聞で美術評論をしていたとか、、、
(もう少し早く作品を作るようになっていたなら)話を聞く機会があったかもしれないがとか、、、難しすぎてよく分からないというのが感想である。
現代は、といっても10年程前までのことになるが(津山さんの話なので)、かって共同社会が引き受けていた未熟、闇、死などを個人が引き受けねばならなくなった。
人間の原初的苦痛への対し方に表現という文化があるとするなら、個人で行わざるを得ない。
時代と格闘する個人には、対象の再現化・新しいイメージの造型化ではなく、行為という時間性への転位などの表現の新しい解釈が必要だろう。
もう一つの評論の仕方に、純粋さというのがあるようだ。
アメリカ現代美術に今まで見たことも無い物との出会いによる衝撃を感じるだけでもよいらしい。
*9月20日に図録に載っている「『非』の創刊にあたって」(p111)を読み直すと、かなり違っている。
「二つの言葉の、いわば偶然的な接近からこそ、ある特殊な光、イメージの光が輝き出たのであって・・・イメージの価値は得られた火花の美によるものである。・・・」(アンドレ・プルドン「シュールレアリスム第一宣言」)
・・・一見、無関係なものどおしの、遭遇の衝撃であり、火花である。・・・それにしても、大切なことは捨てることだ。何かのために。・・・
*「変容ー時間」(ART IN FRONT,TOYAMA'91)(図録p102)・・・と時間を孕んだエロティシズムは、女の一瞥を子供に変容するのである。三次元では解決できないことだろう。・・・確かに生命のざわめきそのものは三次元のかたちでは表現できない。せいぜい表現できるのは異次元の接触面だ。・・・現代美術は、従来のヨーロッパ近代が信じていた三次元の時空を突きぬけ、内包していた自我を超えて、身体的欲動に、概念に、変容に、虚無に近づくのであろうか。生命のざわめきに同化したいのかもしれない。・・・壁やガラスケースの中にある文章から、上で太字にした言葉をキーワードにして「津山昌の視た作品」というのを理解しようとしたが、分からないというのが本音だった。
頭川政始さんの鉛筆画は、非常に精密で、奇妙な感じとともに、原初的なエネルギーを感じさせた。深海のチムニ−の付近の生命のような気がした。
横山善一さんの彫刻は、柔らかい曲線が優しさに満ちていた。思わず微笑ってしまう。現代美術が時代と格闘する個人の表現であるとすれば、工芸というものは時代の流れの中で角を取られていった共同社会の表現といえるかもしれない。
民芸品と伝統工芸品は、余計な物を取り去り、単純な形を残したという点で共通する。
使う場所が違う。民芸品は日常生活で。伝統工芸品はハレの場で。
高瀬孝信さんは、日本工芸会正会員で、「日本伝統工芸展」で総裁賞、高松宮記念賞を受賞され、鑑査委員を歴任されています(たぶん井波町出身)。そこで Hさんに会い、チューリップ四季彩館で休んだりして、一緒にいた。技術が足りなければ時間をかければよい。「本願他力」という、我執にとらわれるのではなく、阿弥陀如来にすべてを委ねる生き方が大切だといっているのかもしれない。唯一原書で読んだ"La porte étroite"のAlissaの生き方もその様だった気がする。20年程前の独学で、正しく読んでいるという保証は無いし、そもそもはっきりおぼえていないが、、、身を隠したのだったか?
質的に違った視点から、生と死を考える。自分自分という見方ではなく、物もすべてあるがままの姿で受け入れる。そこから「新しい解釈」が出てくるかもしれない。
「『行為』という時間性」というものは、写真を連想させる。伊藤公象さん(図録p88)の「土によってひだ状を見せた銀色紙」は生成の過程を捉え、自然のもつ変化する姿(自然の凄さ)を見せたいのかもしれない。美術とは何なのかと思う。柳宗悦は昭和15年頃、たぶん琉球の民芸を訪ねた時だったと思うが、現代の科学技術はもう十分発達したと書いていた。同じ言葉を今の人々も言う。未来の人々もまた、もう良いではないかと言っているだろう。現代美術も、科学技術の進展と同じ道を歩んでいるのではないか。
もう十分だ、しかし、思いもしないことをもたらしてくれるかもしれない。
本当に純粋なら、我こそは誰もした事の無い、新しいことをしているんだと、「時代と格闘する芸術家」なんて面は出来ないのではないか。本当に時代を切り開いているのか?
「新しい」かのように見える物は、説明が無いと分からない。問題はそこにオリジナリティーが果たしてあるのかというところにある。日本の「学問」なる物の中にしばしばあるように、人が余り知らないところから借用しているだけかもしれない。そうなれば伝統工芸と、精神的には同じになる。時代と格闘していると錯覚し、実は表現と、つまり先にあった表現と格闘しているに過ぎないのではないか。何を時代を言うか、そもそも時代などという大げさな言い方を何故するのか。孤立しているということが、現代の人間に共通する状況だということは、逆にそこで共同できるかもしれない。しかし、すべてを人間に任せておいてはいけない。
Dieuにすべてを委ねることは人間として死んでいることにならないか。いや、神の心を生きていることになるのか。Alissaはやはり生きている、、、
自らの課題の答えを自然の中から感じ取る。そこに喜びがあるのかもしれない。
justiceの中に含まれる嘘や傲慢さを表現する人もいよう。destructionだけが人間の得意なことと思う人もいよう。伝統こそが生きる道と思う人もいよう。今はやりの棲み分けではなく、個人の中に幾つもの感性を並存させていくべきだと思う。
こんな時代になんと悠長なことをしているんだ、などとおもわず、理解不能に思えることを何とか自分の言葉に置き換えるよう努めるべきだ。
生命の新しい解釈で何が深まることになるのか。ここでまた科学技術に行き着く。何らかの部分だけが歪に伸びていく。変な解釈なら、不必要な世界をもたらす。自然に帰るべきだろう。永原廣さんは、利喜夫君の祖母の弟にあたり、一緒に砺波市文化会館での展覧会を観にいったことがある。
空間を掴み取ろうとしている感じがするというようなことを永原さんに言ったら、その通りだと答えたそうだ(何せよく忘れるので、正確な会話の再現ではない)。「空間」というのがキーワードだったのは間違いない。
津山さんのp91の説明も、「空間」との関わりを述べている。
表現を的確に捉えられる眼を持ちたいものである。
生命体として捉えるなら全くの自然過程に過ぎないことを「変容」と捉えることの意味は何なのか。孤立化してしまっていることの別の言い方なのか。その格闘から、何をしたいことになるのか。何故生きているのか。こうしたことを問いながら、問いを超越する生き方が、時代を切り開いていくのかもしれない。
8月25日 高岡漆文化セミナー (漆を語る会)
第15回目となる「漆を語る会」の漆文化セミナーが8月24日〜26日、高岡市で開催されている。
一応、県内唯一の会員として会費だけは払っていたが、参加したことは一度もなかった。
金沢市の故高野行雄さんの紹介で、入会だけはしていたのだが、お金がなかった。
顔見知りは、金沢の鳥羽さんと高野さんだけで、こちらが一方的に知っているのは山崎さん(1998年10月18日「温知図録」と高岡の工芸作家・・・高岡市美術館ハイビジョンホール)。名前だけ知っている人はいたが、いまだに名と顔が一致しない人が多い。講師として5人の方々が、講演をされた。講演の題目だけを見ていたときは、あまり大した事は無いのではないかと思っていたが、それぞれ興味深い話が含まれていた気がする。題目を列挙してみる。
◇「高岡漆器のあるいてきた道」(後藤義雄先生 高岡短大名誉教授)
◇「漆のデザインということ −ヨーロッパ石川伝統工芸展をとおしてー」(木村ふみ先生 食環境プロデューサー)
◇「セレンディピティのすすめ」(酒井弥先生 酒井理化学研究所 理学博士)
◇「イタリアの職人企業」(佐々木雅幸先生 立命館大学教授 経済学博士〔京都大学〕)
◇「漆芸外伝『橋本市蔵とウイーン万博』」(灰野昭郎先生 奈良大学教授 前京都国立博物館)
これらの講演を一日で纏めるのは無理だから、一週間ほどかけて、自分が理解できたかぎりでの要旨を纏めてみようと思う。
大体共通しているのは、ゆとり、遊びの必要性、価格競争に走るのではなく独創性を競うこと、、、
灰野先生の、高岡で地元出身の林忠正を知っている人はほとんどいないのではないか、という話は単に高岡に知人がいないことを示すだけのような気がした。話が終わった時、ちょうど高岡市美術館の武沢喜美子さんがいたので、2、3年前に美術館でやっていましたねと聞くと、武沢課長は5年前で、企画もしたとのことだった。
正倉院の木村法光さんと長谷川洋前課長が知り合いだったような、人と人のつながりがないと勝手な思い込みが一人走りをしてしまう。もっとも、この話は9月5日発刊予定の、灰野先生の著書「漆 その工芸に魅せられたる人々」(講談社¥2200)と関連付けて理解しないと、こちらの思いの一人歩きになってしまうことにもなる。
富山市生まれだが、(現)高岡工芸高校出身の山崎覚太郎の知名度に比べれば、たまにNHKの日曜美術館で名が出ることがある程度の林忠正は、地元高岡でも無名に近いのは間違いない。*林忠正(1856−1906)
「フランス絵画と浮世絵 −東西文化の架け橋 林忠正の眼ー 展」
(1996 9/28-10/27 高岡市美術館) 以後、ふくやま美術館、茨城県近代美術館を巡回
*山崎覚太郎(1899−1984)
漆芸家 日本芸術院会員 社団法人日展理事長、会長、、、□「高岡漆器のあるいてきた道」(GOTOU Yoshio 8/24)
加賀藩主前田利家の子、利長が高岡に城を築いたとき(慶長十四年1609)、町の繁栄を願って、高岡御車山の引き回しを許した。御車山(七基)には、高岡漆器の技術の粋が集められている。
彫刻、皆朱塗り、、、辻丹甫
勇助塗は、特定の技法を指すのではなく、錆絵または箔絵、玉石貼りを含み、色々な技法を組み合わせたものである。縞堆朱。三代石井勇助の弟子、彼谷芳水は玉石を組み合わせる表現などで現代化した。
螺鈿は100年程の歴史である。厚貝には朝鮮系(木村天紅)と奈良系(布目弥逸)があった。
厚さが0.07〜0.08mmの薄貝(青貝。主に鮑貝、夜光貝)は、鑿、針などで細かい模様を切って、貼る。□「漆のデザインということ。−ヨーロッパ石川伝統工芸展をとおしてー」(KIMURA Humi 8/24)
漆、陶磁器、染織など石川県の伝統工芸品を持って、コペンハーゲン、フランクフルト、ロンドンでその地の工芸品などと組み合わせたりもして、展示会をしてきた・・・ストーリー性を考えて。
◎どういうコンセプト(理念、思想。SUNATAの感想であるが、日本人の使うカタカナ語にはしばしば違和感をもつ。コンセプションではないのか。concept : idea underlying a class of things; general notion. conception : conceiving of an idea or plan. )で作っているか、意味のわかる言葉で伝えられること。
◎差異が目に見える形、機能がしっかり分かる形のデザインであること。
日本は伝統品のみが、ヨーロッパのデザインに対抗できると感じた。何故こういう形なのか、考えてみる。暮らしと使うものが一致しているか?
◎マーケティングをしっかりする。
使い手と作り手からの情報との接点からデザインを考える。
art product(一品物)とmass product(大量生産)の間のcraft product(工芸)を目指す。産業規模は大きくない。
ダンピングせざるを得ないような作り方をしない。制約のある中での自由。心を形にする。心地よさのある品物。地域性、ストーリー性。
□「セレンディピティのすすめ」(SAKAI Mitsuru 8/25)
"ラン藻"を育てて、ダイオキシンを分解し、地球環境を改善しよう。
ウルシオールの構造を研究した真島利行先生の3代目の弟子に当たり、ウルシオールの合成をしたが、二人で1年で1gできたにすぎないし、酵素が無いと乾かない。そんな物を合成するのは難しい。自然の凄さである。
《その後、キーワードを図示した物を見せて、巧みな話術で進められた。》オンリーワンとして、持続していくことが大切。
素人の見方。多様性・・・純粋にしない、無駄があるからよい。
まず人を創る・・・褒め7、叱り3。一隅を照らす心を。好きになる工夫(手を離し、目を離さず)
仕事・・・1.面白い 2.ためになる 3.得をする 4.エコロジー 5.独創性(アイディアの引き出し−時々見る)
右脳ー知性ー感性・・・クラシック音楽(母親の心拍に近い。植物、、、)
道草(ゆとり)、遊び、分からないことの楽しみー小さい失敗を繰り返す
柔軟、逆転の発想
セレンディピティとは、掘り出し上手・・・セイロンの胡椒、、、
製品⇒商品・・・付加価値、廃棄物のリサイクル、地球に優しい(エコロジー)空気電池。人工真珠(水に消石灰、ダシのもと)。人工鼈甲(残ったビールをバケツに二ヶ月ほど放っておく、コーヒー)。。。
*「漆を語る会」のビデオが出来たら、買うのが一番よいだろう。
□「イタリアの職人企業」(SASAKI Masayuki 8/25)
21世紀はどうあるべきか。元気のあるイタリアをもとにして考えた。
ボローニャなど、人口30万〜50万人の都市が独自の芸術文化を育て「創造都市」として多様な姿を見せている。
22名以下の「職人企業」が専門特化し、ネットワークを作り、価格の競争ではなく、個性を競い合いながら、文化性の高い物作りに励んでいる。
大量生産ではなく、「安全」や「環境」を重視し、人間性や文化性を大切にする製品を作るには、自立性を持った職人が向いている。
ラテン語で「オペラ」とは、自発的で創造的な「仕事」の意味だが、そういう自由な「仕事」を楽しみ、再び技術と芸術を融合させて創造していく。
日本でも、手仕事の要素を残しながら、地域(各都市)に根ざした個性的で、質の高いものを、維持可能な量作っていく、柔軟性のある体制を作り、世界に展開していくべきだろう。《短く纏めるのは、なかなか難しい。『創造都市への挑戦』(佐々木雅幸 岩波書店 ¥2500)
高岡サンセンターで買い、サインしてもらう。言葉の表面は読めるが、分析内容や内実を読み取るのは無理だろう。自分なりに、これからの道を考えていくしかない。
佐々木先生、「頭の悪い竹中、この10年間失敗ばかりして(or外れてばかり?)いて、相変わらず、、、」正確な言葉は忘れたが、ITやら、、、「また失敗する」。》*9月22日全く遅いペースで著書を読んでいるが、自発性に発している民間と強いられた民間では発揮できる能力に大きな差が出てくると感じる。
*ITに関しては、カジノ資本主義のターゲットとしてのそれを否定しているが、
ネットワーク、データベースでの働きの有用性を述べている。(10/6)□「漆芸外伝『橋本市蔵とウイーン万博』」(HAINO Akio 8/25)
江戸末期(文化13年、1816)、鞘塗師の三代目として生まれる。驕慢を諭され、遊興に走る(15歳)。悔悟(22歳)。酔阿弥と号し、生前葬(50歳)。戊辰の役で官軍につく、明治維新(52歳)。
金に淡白で、貧しい人に施すような人。
明治6年(1873)、ウイーン万博(明治政府が外貨を稼ぐため)に「煤竹塗」(杖)や「手板見本」などを出品。10歳年長の柴田是真「富士山の額」出品。売れる。
その後、段段と万博で売れなくなる・・・*ここで林忠正の話になり、、、高岡銅器からの問い合わせに答えている、、、
*高岡市美術館の図録に『高岡銅工ニ答フル書』(草稿)が載っている。p.158-p.161
上等の工芸品は博物館買い上げ、、、高岡は販売美術品、、、千人に適する品と一人に適する品、、、パリ230万人の内、買うお金のある人は5、6万人、、、*柴田是真に関して、「ジャパンうるしネット」に興味深い記事があるのを見つけた。(9月5日)
根津美術館での室瀬和美先生の講演会である⇒「蒔絵扇面業平図硯箱」
*柴田是真「富士山」の額とするのが正しいのかもしれないが、福富太郎氏所蔵だそうです。
写真しか見たことが無かった時は気付かなかったが、実際の物を見ると1mmほどの人物が描いてあったりと、細かい心遣いのある作品ということだそうです。
6月18日 大場先生の研究会
6月16日(土)に日本工芸会富山支部の木漆部会の研究会が、金沢から大場先生をお招きして開かれた。
今年は木工部会からの出席者が二名と少なかったが、高岡短大の卒業生二名に在学生も聴講した。
例年どおり、金工、七宝の方も加わった。
個人の作品名は省略し、いろいろお聞きしたことを書き出してみる。◇つまみは裏から座金を当てて、取れないようにする。
◆木地はまず、漆を吸いこまなくなるまで吸わせてかかる。それから布、、、
◇乾漆は塗りだけで見られる物の方がよいが、少しだけの加飾は引き締めになる。
◆見込みに一つのまとまりがあると考えて、内脇、端との繋がりを考える。
◇説明を聞いてそうかと思う作品ではなく、それがなくても感じるところがある作品。
◆玉縁は、外・合い口だけでなく、内側まで作っておく(漆の仕事で隠す)。
◇意図的な流れではなく、おおらかな花弁の並びのほうが〇〇さんには合っている。
◆モチーフに近いようにするより、文様と考えて、金を使ったら、、、(銀は錆びて、そのうちなくなってしまう)
◇力がたまっているいる感じを受け継いでいく、、、
◆見込みが平らに見えるよう、隅付近を少し高くし、うまくつないで行く。
◇花と葉の、どちらが主役なのか、決める。甲にもう少し花を置けば、感じが出る。側面はもっと花が咲いているほうがよい、うるさくしないためには数を減らせばよい(根本先生も)。
◆中心、、、動きの始まり、、、
◇こういう良い写生があるのだから、自然な感じに三つを縦に並べ、その間を両方から来る蔓で対話させるようにする(山帰来)。 ・・・・・林先生の新居へ行く。大場先生、根本先生、新敷さん、吉川さん、寺田さん、、、山下さんからもらった麻布を7人で分ける。空気を循環させ、木を生かした家だった。林発電所。
5月3日 「これからの伝統工芸」(嶋崎丞 石川県立美術館館長)
「第40回日本伝統工芸富山展」の記念講演として、5月3日午後2時より、高岡市美術館ハイビジョン・ホールで行われたものを、自分なりに纏めておこうと思う。
日本の20世紀は、物質的な豊かさを求めてきたが、21世紀には、手仕事で作った、質の高い一品による、心の時代が来るのではないか。
日本と西欧では、伝統への対し方が違う。西欧では、17世紀頃から、生活の中に伝統が生き続けている。日本は、伝統的生活から切れてしまい、全く新しいものから始めることが多い。明治、戦後と、そのようにしてきた。
西欧では、壁一面に展示したらそのままになっている。日本では、屏風や掛け軸のように、美術工芸品は生活調度として、出したりしまったりされていた。
西欧では、主に金属工芸ということになるが、小工場で、道具というより機械設備で作る感じである。日本では、家族的であり、手の延長としての道具を使うという手仕事で行われていた。
伊勢神宮の式年遷宮が20年毎であるのは、技術の伝承のためである。南北朝や戦後、それが出来なかった時に、組み紐の技術が途絶えたことがある。昭和30年代から40年代にかけて、伝統とは何かとよく論じられた。イタリア・オペラやロシア・バレーが、厳しい訓練の上に打ち立てられた伝統である事を知り、日本でも、その必要性が再認識された。松田権六先生は、伝承の積み重ねにより、松田のパターンという型を獲得し、型の訓練を通して名人芸に達した。
量産化、使い捨ての時代が行き詰まった。これからは、やめるに止められない日本の伝統の中から生まれてくるもの(織部がペルシャなどからの流れの上にあることをきちんと意識することなどが大切で、切れてしまっているところから出発してはいけない)を作るべきだろう。今日的なセンスで、素朴さのあるデザイン。自然な味わいのある、手仕事。
《かなり我流の纏めなので、文責は全て砂田にあります》
5月1日 工芸
古語のはずなのに、japanを漆の別名だと言い続ける。では、何故lacquerと言う単語を使うのか。ジャポニズムといわれるものは、浮世絵の表現が与えた衝撃からきている。南蛮漆器が存在しなかったなら、浮世絵がjapanと呼ばれただろう。
遺跡に残るような素朴で力強い表現から始まり、廻りまわって前衛という工芸的な表現に戻った(「カルメン・コレクション展」高岡市美術館1998)。
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3月25日 水銀朱と蒟醤の色漆
展覧会に出品していると、常に落選のことを意識する。第18回の漆芸展のときは、落選という言葉は思い浮かばなかった。硫化水銀朱でも、重い方の赤口を練ったのだが、我が家のウルシノキから採った生漆が秋になって素グロメ漆(天日によって)に出来なくなったにもかかわらず、少しだからと混ぜてしまった。塗って18時間ぐらいで艶が落ち始めるのが、我が家での経験上、最も発色がよい。手作りの回転風呂(手回し)のアクリル板を当てた窓から覗くと、理想的に乾いていっているように見えた。ところが取り出してみると、ほとんど黒に近い感じに赤口朱が乾いていた。暈しもうまくいっていたので、ショックは大きかった。
朱を発色させるため、毎日朱を練り足し、付けを取っては感じを見ていった。4、5日して、やっと許せる発色の朱になった。どう考えても、朱の粉の比率が多すぎるが、仕方がない。漆は本当に思いもしない事をしてくれる。あの程度の採れたての生漆が、乾きに変化を与えずに、発色の邪魔をしてしまう。2月3日、4日と、香川の山下義人先生を招いての「蒟醤」研修会が高岡市のデザイン・工芸センターで開かれた。
蒟醤剣で彫った後、各自、家に手板を持ち帰り、色漆で埋めることになった。
水銀朱以外、余り練ったことがないので、空色、黄、紫、黄緑、緑、藍などを、見た目で同量か、漆をやや多めにして、まず練ってみた。すぐにとろっとした感じになり、木地呂漆を追加する必要がないように見えた。薄く色埋めをして、かなりの湿り気の中に置いた。
ラッカーゼの活動が活発になり、ウルシオールが酸素と重合し、黒に近い感じに乾いた。
彫りを3回程で埋めた後、研いだり、生正味漆で固めたりし、仕上げていくと綺麗な色になっている。
見た目の量で、木地呂漆が1/3ほどですむレーキと、水銀朱では、全く別世界のような感じがする。素グロメ漆の出現を必要としたのが硫化水銀朱(辰砂)であったと、今回も思う。山下先生の蒟醤剣
小さい手板での実習
2月12日〜・・・
酒を断とうと思っていた1月2日、上田さん宅より電話。昨年10月に「ザフラドキ村国際木彫キャンプ」(チェコ共和国)の体験談を聞く機会(小矢部市道明)のあった横山善一先生が来ているとのことで、行く。
Il m'a dit immédiatement "Vous n'êtes pas venus chez moi (le musée d'Itimou Yokoyama). Il me semble que vous êtes solitaire et vous avez peu d'amis. Quelque chose vous tracasse."
Ce n'est pas facile pour moi d'expliquer son caractère. Il peut-être aime les femmes et la nature.
折れた枝にご苦労さん、ありがとうと言う心が "Space of meditation"(International wooden sculpture camp ZAHRADKY 2000)を生み、上田さん宅で絵を画くときに「なんまいだ、なんまいだ、、、、」と言わせるのだろう。一瞬の内に没入できるところが芸術家なのかなと感じた。 《井波彫刻協同組合⇒彫刻師の紹介⇒横山善一》と順にクリック。
展覧会とは何なのだろう。戦いだとか言う人が多い。入選しなければ展示されない訳だから、主旨が自分に合うと思う展覧会に出品することになる。ここまでは普通のことだ。展覧会では飯が食えないと言うことも普通のことだ。
入選するために展覧会の傾向に合わせたり、賞がほしいと脂ぎるのも一つの道だろう。不純な動機でも偶然良い作品ができることはありうるだろう。そんな戦いから生み出されるものとは何なのか。
「中国文明展」(石川県立美術館)での表現の多様さ、縄文土器の力強さは歴史に残っても、現在の展覧会の中の作品に、残るに値するとみなされるものが果たしてあるのか、、、
展覧会があるから作品を作るということもいえる。誰かから良いと認めてもらいたいから出品し、賞を取り名が売れれば(品物を買ってくれる人が出てきて)飯が食えるようになるかもしれないと期待して出品する。世の中そんなに甘くない。
自分の思いと別の世界があるから、世の中面白いのかもしれない。しかし、作る立場から言えば、できることは限られている。何をするのか。利喜夫君の言うように、対話できるような作品を作ることだろう。何か新しい表現でなければならない。少なくとも、自分にとって何か新しい試みをする必要がある。
工芸というものは、何かの時や場所で使うことを前提にしている。独自に考え出す時は、生活している自然界にあるものを利用する。貝を食べていても、日本では、それを模様を表す材料とする発想は生まれなかった。つまり、螺鈿技法は思いもよらない世界だった。「メソポタミア文明展」の図録を見ると、「50.ライオンの頭を象ったスタンプ印章」(前3500〜前3100年頃)は白色大理石、「57.象嵌部品:軍人像」(前2500年頃)は貝殻で出来ているようである。いつもの直感に頼る考えからいくと、大理石の代用として、貝殻が使われたのではないかということになる。3月24日の武蔵川義則さんの講演会(高岡市美術館友の会)の後、こんなことを考える機会があった。同図録では、「93.翼を広げた鷲の護符」、「226.227.228.指輪」が載っている。ここから正倉院まで、2000年ほどある話なので、はっきりしないが、貝を薄くして輝きを持たせる表現は思いつかなかったようだ。また自分勝手な、飛躍した考えだが、模様を平面化したい日本人の感性が、蒔絵や薄貝を生み出したのではないか。
厚貝は彫刻、薄貝は絵画を連想させる。それぞれの民族が、身近にあるものを使って工芸品を生み出していった。同じ材料を手にしても、何を作るかは生活法や美的感性によって違ってくる。自分たちで考えつかないような物に出会ったとき、想像力が掻き立てられる。1月12日から雪が降り続き、家のあたりは60センチ程の積雪に過ぎなかったが、1メートルを超えたところもあり、交通機関が乱れ始めた。北陸本線なら二日ほどで正常化するはずだったのに、日を追って運休列車が増えていった。
15、16日、何とか正常化してほしい、城端線や氷見線はダイヤ通りに動いている。
17日は多少雪が降っていて、路面は凍結してはいたが、もう大丈夫だろうと言う感じのする朝を迎えた。5時半ごろ家を出、5時45分頃福岡駅に着いた。24時間前にもここにいて、結局乗車をあきらめたと話す人がいた。
前日の特急列車がまだ通過していないという。5時59分発の普通列車で高岡まで行く予定だった。6時15分頃、前日の特急がやってきた。6時半ごろ普通列車が到着、高岡へ向かうことが出来た。
金沢で列車の編成が出来ないとの放送。子供への土産にマスのすしを買う。後発だった「北越1号」が先に通過し、「はくたか1号」は1時間半ほど遅れて8時頃やっと出発。後藤先生と一緒だった。各駅停車より遅いペースで進む。富山を過ぎ、積雪の多かった魚津は軽く通過。次の駅で停車。前方の駅の列車の出発待ちとの車内放送。その後、先行列車が新潟県で雪の中に突っ込んだとの放送。そのまま1時間以上何の放送もない。10時40分頃、黒部駅で旅行を取りやめる人は5号車(だったか?)から降りてくれとの放送。やめるわけにはいかない。少しして、この列車は運行を取りやめる、富山へ戻る人はすぐ富山行きの列車に乗り換えてくれとの放送。
予定通りなら、池袋西武にいるはずの時刻に、まだ黒部駅、それも富山へ戻るしかない。乗りこんだ車両で前を見ると、目の前に前先生。挨拶すると、「受賞おめでとうございます、残念だが戻るしかない、、、」 輪島を前日に出て、金沢で一泊、今朝一番に出て来たとのことだった。 携帯電話を持っていないので、工芸会に連絡できない(回りの携帯の遣り取りを聞いていて、そう思っていた)。
富山着後、富山までの列車だと言うので、皆、隣のホームの特急列車に移る。なんと黒部からきた普通列車のほうが金沢の方へ向かっていく。
1時間以上、何の案内もない。痺れを切らした人が、姿さえ見せない駅員に話を聞くため改札口まで行く。動く予定は全くないとのこと。
別に普通列車を準備するという放送がやっと流れる。富山を出たのは午後1時を過ぎていた。越中大門駅で、赤信号で停車との放送。30分以上止まったまま。ポイントの凍結だったらしい。JRになってプロ根性を完全に無くしてしまったようだ。
高岡駅で運休の証明印をもらう。夜7時頃から池袋で祝賀会の予定だった。八重樫君の家へ電話するも、テレホンカードの度数が減るだけでつながらない。メモしていた坂倉君の会社に電話すると、番号が変わったと録音テープが流れる。ペンの準備をしていなかったので焦ったが、規則性のある数字だったので記憶できた。前に奥様から聞いていたように呼び出しを頼む。「ろーちょう!」「今、高岡」・・・
JTBへ行く。宿のチェックインができるという2p.m.はとっくに過ぎている。全額返ってきた。
家に帰るには福岡か戸出まで行かねばならない。列車がいつ来るか全く分からない。結局、戸出に着いて、タクシーに乗るのはもったいないし、歩いて帰ることにした。長靴を買ってから、吉川さんに電話して工芸会の番号を聞く。5時から授賞式のはずだから、まだ1時間半はあると電話したが、つながらない。雪の所為と分かってくれるだろう、、、 雪道を70分歩いて家に着いたが、鍵を持っていなかった。翌日に会う予定だった子供には7時過ぎに電話した。長く、空しく、ダヤイ一日であった。17日の北陸本線の特別急行列車は、上下とも全て運休になったと後で知った。
(以上、八重樫君、坂倉君への報告です。)