漆の話  2002年版

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仕事始め〕 〔読書始め〕 〔立春−カウンター−ピロール農法−楡−凍土〕 〔輪島〕 〔抽象…〕 〔高野さん〕 〔二本のテープ〕 〔このHP
原型〕 〔テレビ−漆皮・螺鈿〕 〔金沢で〕 〔反省〕 〔麻布二枚…どうやって〕 〔支部展〕 〔アクセス数〕 〔いろいろと
 〔
麻布二枚(その2)〕 〔石川支部展、人工漆〕 〔ラジオたかおか〕 〔平山郁夫展〕 〔大場先生研究会
泉清吉さん宅〕 〔漆マミレ〕 〔伝統工芸展で上京〕 〔野崎さんの祝賀会〕 〔輪島へ行く〕 〔考え方−朱〕 〔上村松園・鏑木清方
秋の展覧会〕 〔水銀朱〕 〔漆製出土品の焼失〕 〔一部焼失を免れる

12月31日(火)  最後に

道新のインターネットで、一部が焼失を免れたと報道されていた。
実際問題として、おまえが出土品を見て、どういう漆の使い方がされているのか分かるのかと問われると、分からないと答えるしかない。
年代測定が科学的な方法に頼るしかないのと同様、漆の性質がどういうものかということも科学的な分析に頼るしかない。
見た目に感じることは、美的な世界であり、漆の使い方の技法とは関係ない。
技法が生まれたことと、それが一つの世界を確立したこととは、必ずしも一致しない。
伝統という世界に生きていると、もう少し論理が必要だと思う。
技術からの捉え直しといえるだろう。もう一つ、考古学なんていうものより、文学的というか、小説家の視点が出土物に対して必要だと思う。
見ただけで本質がわかると言うのは傲慢である。生きている視点というのも、自分に拘り過ぎている。拘るのは必ずしも悪くない。自分には分からない世界もあると言う可能性に目を閉ざさない限りは、、、
今年は後50分ほど残っているだけだ。漆的には、麻布2枚造りが漆芸展では成功したと言える。誰にも注目されなかったが、、、個人的なことは、RPのページに書いたので省略します。

12月29日(日)  漆製の出土品の焼失

インターネットで次のような報道が流れた。
28日午後11時40分ごろ、北海道南茅部町大船の町埋蔵文化財調査団事務所から出火、木造平屋建て約620平方メートルが全焼し、町内の縄文時代の遺跡から出土した土器、装飾品など7〜8万点の大半が焼失した。垣ノ島B遺跡の墓から00年8月に見つかった国内最古級の縄文時代早期(約9000年前)の漆塗りの副葬品も焼けた模様だ。
 焼失した漆製品は糸か布状のものに漆が塗られた装飾品だった。
 森署の調べでは、焼けた事務所は遺物を磨く作業に使用し、未整理の出土品などを保管していたという。27日が仕事納めだったが、調査員1人が28日に出勤し、午後1時ごろまで作業していたという。
事務所関係者は「施設はすべて電化され、内部からの出火はあり得ない」と話している。
<> 漆製品は、日本で発明されたのか、中国から渡来したのか、結論が出ていない。焼失した装飾品はそれを解明する手がかりの一つだった。(16:25)

以前あった報道は次のとおりだ。2001年6月15日付け。
渡島支庁南茅部(みなみかやべ)町教育委員会は14日、同町の垣ノ島B遺跡から出土した漆塗りの装飾品が、縄文時代早期の約9000年前のものと確認されたと発表した。漆製品はこれまで、中国の揚子江下流域で発掘された約7000年前のものが最古とされてきたが、さらに2000年さかのぼることになる。
 同町教委によると、垣ノ島B遺跡は縄文時代前期前半(約6500年前)と、早期(8000〜9000年前)の複合遺跡で、土坑墓92基と5つの住居跡が見つかっている。漆製品は糸状のものに漆を塗って加工した装飾品とみられ、土坑墓のひとつから埋葬者の頭部と肩、腕、下肢部分にあった計6点が昨夏に発掘された。この時は、6500年前と推定していた。
 町教委は頭部の遺体層の土と、土に付着した漆片の調査を米国の研究機関に依頼。「炭素14年代測定」で調べたところ、いずれも約9000年前のものと分かった。同じ遺跡から、物見台式(約9000年前)の土器も発掘された。
 縄文時代の漆製品はこれまで、島根県松江市の夫手(それて)遺跡で出土したものが約6800年前の縄文時代前期前半と日本で最も古く、漆文化は中国から日本に伝わってきたとする説が有力だった。
 漆製品の分析調査をした助教授は「糸か布状のものに塗るという、漆として高度な使い方をしていることから、漆自体はさらに古くから使われていたと推定できる。中国大陸も含めて東アジア全体で漆文化の起源を改めて議論すべきで、そのための貴重な史料になる」と話している。
炭素14年代測定法 出土した動植物の遺体に放射性炭素(C14)がどのくらいの割合で含まれているかを調べ、年代を割り出す手法。C14は時間がたつと放射線を出して窒素原子に変わる性質を持ち、遺体の中で次第に減っていくことから、資料の年代を算出。空気中の炭素濃度は年代によって違うため、補正して歴年代を算出する。

インターネットの朝日新聞・北海道新聞に報道されていた。コピーさせてもらった。
貴重な出土品が無くなってしまったという事だ。
そこまで出来たという証拠になる。
解釈の仕方には、非常に問題がある。
樹液の利用と素グロメ漆の利用は、質的に全く違う世界だということが無視されている。
こういう素人に何を言っても無駄なことはよく分かる。
樹木を利用したのに、どちらが古いと言って何か意味があるのだろうか。
伝統が廃れると、素人に毛が生えた程度のものさえ一つの権威であるかのように通用することに似ている。
脳や精神の世界さえ、文系が理系に駆逐されつつあるように、考古学なんて、もう少しまじめに研究しないと消え去るしかない。

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12月14日(土)  水銀朱について

昨日は、支部の会合・忘年会。最終列車になってしまうし、買って1ヶ月の傘を忘れてくるし、、、
*迎えに来てもらった車にありました!(12/15)
林先生が日華の洗い朱の黒変について話してくださる。
部屋に出しっ放しにしておいたら、黒くなってしまったそうだ。
広辞苑で、以前繰った記憶があった。
硫化水銀…1硫化第一水銀(黒色の固体。不安定)HgS 2硫化第二水銀(黒色と赤色の二種類。天然には赤色の辰砂として産する)HgS
もう一つ記憶に何となく残っている事があった。
「古代出土漆器の研究」(岡田文男)に漢代の朱のところ、、、
調べてみると、p117,p169赤色顔料はすべて辰砂。漢代の漆器には、辰砂の中に辰砂と同形同大の黒色粒子がしばしば認められ、、、黒辰砂と推定される。黒辰砂であれば、水銀と硫黄による人工品の可能性、、、

数年前、東大の黒田玲子教授がよくテレビに出ていた。多分、猿橋賞のときだったのだろう。
去年の、名大の野依良治教授のノーベル賞で知るまでは、人工的に作ると、天然のものと天然には存在しないものと半々にできてくるという知識しかなかった。天然のものと同じ構造のものは害が無い場合でも、鏡に映したふうな構造に人工的に生産されたものには害がある場合がある、、、
硫化水銀の場合は、黒と朱になって出来てくる。
結局、混在したままに(キチンと振り分けできないままに)製造されているのだろう。朱だけを作る事も可能になっているが、採算が取れないという結論になるか。

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11月17日(日)  秋の展覧会、見て歩き。

10/27(日)富山県美術連合会展の作品をoさんに預ける。2時間ほど話す。ギャラリーで中学の同級生の木藤さんの作品を見る。山から霧のようなものが立ち上がる感じ。瞬間的には、雪と若葉の対比に見えたが、、、大和で高岡クラフト展、装飾過多の感じ、塗りを生かしたものが安心できた。
11/10(日)金沢展、東京であまり見ることが出来なかった陶芸や七宝を見ることが出来た。
長谷川先生の個展、花でさえ踊っている感じだった。
今日は、美連展の作品を受け取りに行く。午後は、OYABE転生回廊の一部を見て廻る。
水落の小矢部ふるさと博物館、書道と写真、自分の好みとは違う。宮永正運、母や叔母の話では、大谷の親戚とのことだが、どういう関係か分からないとのこと(宮永さんが親戚だといっているらしい。曾祖母の大谷元の母のことは全く情報がない)。
福島さん宅、尾長良範展。創画展の作品を見ているので、物足りない。
埴生、桐沢仁美展。最初何が展示してあるのか分からなかった。照明を見て、壁に大きく掲げてあるのが作品と気付いた。何か吸い込まれる感じがした。こういう感覚は、日本画で一番好きな高山辰雄と誰か忘れたが雪空を描く人の作品から受けたことがあるだけだ。優しい。始めてみる方(名前や作品は知っていた)だったが、少し話す。
桜町遺跡出土木製品管理センター、藤井一範展。火薬による陶芸、発想は面白いかもしれないが、際物に堕っしないよう、今後の展開を待つしかないだろう。
藤原さん宅、日本画、洋画、工芸、彫刻。授賞式。
小矢部は、前衛のような表現が強い。現代性が求められるそうだ。
生きている限り、時代錯誤のように見えても、表現は現代的であるはずだ。
自意識の過剰は、現代性を保証しはしない。
美的な世界での完結を目指すなら、今のままでもよいだろう。
人生をもう少し大きく考えるなら、生きる事から発想する方がよいと思う。
砺波の散居村を描いた表現が詰まらない理由は、単に景色として、つまり自分の感性の下にあるものとして捉えているからだと気付いた。蜃気楼とか、立山連峰とかを描く時は、自然のもつ神秘を感じている。人為だけでは詰まらない。(今回の展示とは関係ない話)
芸術至上主義の傾向がないと作家にはなれないかもしれないが、そこで足掻くことが現代性を保証する事になるのだろうか。
今年の富山県の話題は、田中耕一さんがノーベル化学賞を受ける事だ。芸術として表現する時、ノーベル賞は現代的だろうか。タンパク質の質量分析装置を描く事が現代的だろうか。否と言わざるを得ない。それによって初めて明らかになった分析構造(レーザー光線の熱を和らげる)を描いたり、田中さんの人柄を描く事(見えないことを見えるようにする)が現代的といえるのではないだろうか。今までにない視点から捉えられて初めて現代的というのではないか。抽象性を装えば時代を捉える事になるとは必ずしもいえない。表現とは何か、表現したいとはどういうことか。生きるとはどういうことか。

10月20日(日)  「上村松園・鏑木清方展」(富山県水墨美術館)

今日は、まず尚美展(高岡工芸高校)へ行きました。
以前子供が出た電気科を見、工芸科へ廻りました。
朱の蝋色が上がっていて、驚きました。塗り直したのかと聞く勇気はありませんでした。
目標を持って作品を作っていけば、将来の可能性は十分あるという感じです。

富山県水墨美術館に昼頃着く予定で旧8号線を東へ走りました。
KNBラジオで宣伝している「上村松園・鏑木清方展」、昼の割には混んでいました。
後ろから押す感じの人が、いろいろ喋り、時々咳払いを続けたので集中できませんでした。
途中で離れましたが、知識はあるとしても、迷惑としか言いようが無い。
ラジオで本アナは、鏑木清方の方が男の好みに合うといっていましたが、私の好みからいうとそういう事には成りませんでした。
上村松園は、線がこれしかないという優美さをもち、隅々まで神経が行き届いた感じでした。
色も微妙に変化し、それが影で立体感を出す洋画と違う表現になっていました。
一番気に入ったのは「待月」でした。
図録より取り込みました(当然、本物にはかなわない)
「楊貴妃」は、以前高岡市美術館で開催された「上村三代」展で、下絵が展示されていた気がするが、完成作品を見た事になる。
感想を喋り捲る人の顔を見ると、自我の固まり、硬い表情であった。
松園の絵に見とれている人の表情は、松園の描いた表情とそっくりだった。
さて、砂田の表情はどうだったのだろうか?
鏑木清方は、妖しい表情、幽霊のような表情を感じさせた。
生活感を引きずっている。技術も松園より荒っぽい。
動きがある図柄なのに動いてない。

松園の絵は、静かなのに動きがある。清方の絵は、ポーズがあるのに動きが無い。
松園の絵は芝居や劇を感じさせ、清方の絵は俳優を感じさせる。(10月21日)

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10月13日(日)  考え方

このホームページを「砂田正博の方法」とことわる通り、作業の考え方はいろいろあります。
朱漆に関しても、私の場合は、硫化水銀朱:透き漆=1:1の重量比です。
展覧会芸術が自分の目的ではないし、乾きの速さで発色は調整できます。
朱をどう作るかも、かなり違うようです。
淡口に近い色を目指すとしても、私の場合は、基本は赤口:黄口=2:1の比で混色し、淡口朱を練って使うのは補助的です。
出発点は、どう淡口を発色させるか(赤口:黄口=1:1の比で混色したら、黄色が勝ってしまった)にあったが、比重が極端に違う朱の粉を混ぜる事により、その混ざり斑で新しい朱が表現できないかと期待している訳です。
計画通り、考えた通り作ると言う日本工芸会の方々とは、大きく違う点です。

12日には高岡市のオフィスパークへ「人と環境にやさしいデザイン展」SUSTAINABLE DESIGN FESTAを見に行きました。再利用と木がキーワードのような感じでした。それにしても漆器のロングセラー(息の長いデザイン)にA社で私がカシュ−を塗り、マコモをK氏が蒔いた品があったのは驚きでした。

10月6日(日)  輪島へ行く

行こうかどうか迷っていた輪島へ行ってきました。
現代の百工比照 シリーズ1「人間国宝・うるしの技」(輪島漆芸美術館)
トークセッション『人間国宝 増村益城・田口善国の技・人・心』を語る

昼の視覚には大きな問題は無いので、自分で運転しました。
朝9時ころ出発し、正得のスタンドで給油し、高岡・氷見、海岸沿いを走り七尾と、少し遠回りで行きました。カーブでスローイン、クイックアウトという原則を守るというか、クイックアウトだけが速いという運転です。直線はあまり飛ばさない。
輪島近くの道が、2月には工事中だったところを走るようになっていたり、少しずつ近くなっている感じで、11時40分頃に輪島に着き、昼食場所を探しました。
結局、輪島駅だったところの側のスーパーで寿司や茶を買い、漆芸美術館の駐車場に行き、車の中で食べました。
友の会のカードを見せ、もう一人連れがいる(つまり550円の入場料)事を告げると、トークセッションに行くなら無料だと言われ、結局無料で入場できた。

展示作品を観ていく。見た事がある作品、写真だけで見た事がある作品、それに初めて見た気がする作品。一人の作品をまとめて見たことがあまりないし、自分の好みだった作品が並んでいる訳でもないので、新鮮な感じがした。
乾漆で増村益城先生と塩田慶四郎先生の作品はかなり違っていた。
すっきりと、きりりとしまった感じ:緩やかな中に微妙な表情
蒔絵はよく見ると非常に細かい技法など。
東京で見に来ると話していたOさんに会いました。帰りは運転をしてもらうと話す。
作品は残るからと言われる。残るに値する作品ができるかどうか、、、

トークセッションを早めに纏めておかないと忘れそうなので、メモ風に書き出していく。
工程見本は、最初の人間国宝に指定された方が明治期に修行した技術記録と言うことができる。
仕事をする条件に応じた(合った)技法があるのであり、それしかないと考えない方がよい。
柳橋先生は、そういうことを前提に話された。スライドで百工比照・作品。

増村益城先生に関して(林氏)
・もともとの花からデザインする。見舞いのパラの花の形をじっと見つめて、、、
・平面図は描いた。何度も描き直したりして、平面と側面の定規をつくる。
・晩年は、柔らかく、柔らかくというふうに変わっていった。
・摺り重ねて、後は手ズレで艶が出る…という作品もある。
・乾漆花蓋物−弁柄漆を非常に薄く塗り立てにしたら、黒っぽい線がでた。
・技術の大切さ。
・教えてもらった事は、椀の底の研ぎ方と、クジラ箆の使い方だけ。
・本朱:漆=1.5:1。淡口:漆=1.2:1。
・コンマ3ミリほど中央が高くなるように研ぎ、平面に見せる。
・美栖紙ではなく、宇陀紙(?)…(柳橋氏)

田口善国先生に関して(主に、築地氏)
・物を見ながら技術を身につけた。
・高蒔絵の現代化。
・古典(桃山)の取り込み。
・独特の視点。
・モチーフを選ぶとき、嫌いなもの・不得意なものから始める。
・技術も不得意なものを身につけるように。(林氏)
・メジャーでないものに光を当てる。(林氏)
・上から網をかけるような図。力で抱え込む感じに。(柳橋氏)
・枝漆をなやし、金消し粉を磨いた。
・ススキなどを定点観測(スケッチ)していた。
・割貝に使う糊はアラビア糊−教えてもらえなかった。
自分たちは別の糊を使っている−[適した糊を見つける作業が有益だということか]
漆で貼ってすぐ和紙を取り除く。浮きやズレを直す。
(10月6日−10月10日)

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10月5日(土)  4日(金)に野崎さんの祝賀会

今年の本展で最優秀賞にあたる、日本工芸会総裁賞を受賞した野崎さんの富山支部の祝賀会が昨日(4日)開かれました。
金森先生、般若さんに続いて富山支部で3人目の総裁賞です。
秦さんが元美術教師らしく、彩度0の地に彩度10のほおずきの朱を持ってきたり、細かく表現に差をつけている事などを指摘し、絵画的な世界になっていると解説した。
野崎さんは受賞の喜びを述べられました。
「弟よ、、、」と酌に廻って来られました。新敷さんには「息子よ、、、」
漆芸部門は、私が始めるまで10数年新人が出ず、大きな段差がありました。
珍しい事もあってか、割と接する機会がありました。
2次会では隣に座り、授賞式の話などを聞かせてもらいました。
2点の間で桂宮が選ばれたそうです。
「美しい、美しい」と言葉少なに語られたそうです。
大場先生にも手招きされ、話を聞いたそうです(飲んでいた所為か、どんな話だったか思い出せない−砂田)。
今年の大場先生の研究会は、お呼びがかからなかったそうです。
普通なら今度は自分が・・・と思う所でしょうが、そういう気にはなりません。
別世界と言うより、自分が特別の技法を考えついたとか、人に無い感性があるとか、そういう意味での才能が無い、換言すれば、新しさとか特別性とかを今の自分に感じる事は無い。
視野がなくなっていくと回りくどく言わず、単純に言えば目が見えなくなっていく宿命の下にあるとき、何をして生きていくべきなのか、何ができるのか。
7月の保さんの祝賀会の後、最終列車に乗り、福岡駅で降りる予定であった。
目を覚ますと、明るいプラットホーム。どこかで見た事のある駅だが、、、金沢!
乗り越し料は取られなかったが、朝の5時台まで戻る列車が無いとの事。
家に電話し、金沢まで迎えに来てもらった。座ってうつらうつらして待っていた。
9月25日の東京の帰りも、昨日もそういう失敗をしないよう列車内では起きていた。
兎に角、一つが終わればまた新たな作品を作っていく、できる限るはそうしていくしかないだろう。

9月28日(土)  第49回日本伝統工芸展で上京

25日(水)に伝統工芸展の漆芸部会研究会があるので上京しました。
漆芸の展示場所に最初に行きました。寺田さんに会いました。
木竹工、陶芸と進むと、保さんに会い、初入選の金田さんの作品、次に総裁賞の野崎さんの作品の所に案内してもらいました。
金工、人形、染織と廻っていると、また寺田さんに会いました。
漆芸と木竹工・金工が近づいているのではないかという印象でした。
三越向かいの、刃物の木屋へTさんに連れて行ってもらい、先にアールがかかり、両側に刃のついた刀を買いました。
たぶん初入選の時、後藤先生に連れて行ってもらった裏通りの食堂に偶然入り、昼食。
浅草へ早めに行き、浅草寺、土産屋横のベンチで時間を潰し、研究会場へ。
纏めにくい感じの話が続いた気がしたので、余り書く事がありません。
田口先生の「気品」・「調和」という言葉が印象的でした。
技術やテーマは説明が無いと分かりにくいのが工芸の世界だとは思いますが、説明しないと分からないのでは、どうしても弱い。そこが現代美術を似ている気がします。
現実と対応するというより、現実の中にある自分と対応するという間接的な感じです。
表現する自分とは何か、何を表現するか。
人智を超えた大自然を前提にしない限り、人為ばかりが目に付くようになる。
(このあたりは、表現一般の問題として書いている。)

研究会場を出て、岡村先生に挨拶。富山県から初入選というHさんという方が、昨年の漆を語る会で見た事がある人だと分かりました。
TさんからOさんだと教えてもらった方が、一人で回っているとき声をかけてきました。
インターネットで見ているとのことでした。気恥ずかしい気がしましたが、、、
すきっとした感じで、熱心な方のようでした。
増村先生に話を聞くことが出来ました。
赤口・本朱の線の蝋色の失敗は気にならないとの事。
蓋と身で線の太さが違う事は、完璧な仕事は面白くないよ…

6時に八重洲中央口での待ち合わせの予定だったので、三越を出る。
早めに右折し、見知らぬ道になってしまいましたが、迷う事無く、5分ほど前に到着。
会えたのは、それから約40分後。こちらは八重洲地下街の方を中心にJRの方を見たりしていた。
八重樫君と坂倉君は、JRの改札口にいた。
歩いていくと、坂倉君が気付いてくれた。声を聞くまで目に入らなかった。
駅伝の話、奥多摩は厳しいが、横浜は緩い。
昨年の店が静かだったので、今年も入ったのだが、高校が一緒だった清都君のところの「勝駒」が置いてあった。

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8月24日(土)  漆マミレ

3回にわたって行われる「児童・生徒に対する伝統的工芸品教育事業」(24日、30日、31日)で、午前中、高岡工芸高校へ行ってきました。都合で、私は今日だけの参加です。
高岡漆器塗り部門の伝統工芸士が生徒に塗りの指導をする事業です。
工芸科の漆工芸の、2・3年各5名。全員が女子なのには驚きました。
朱を練る役が回り、王冠朱を練りましたが、粉も朱合蝋色漆も計量に失敗し、比率は勘に頼りました。
練る道具もなく、漉し紙から垂れなかったということは、練り不足だったようです。
指から手まで、漆マミレになってしまいました。
練っていたため、担当したSさんの塗りだけが遅くなってしまいました。
付けを取らず、一発勝負の塗りなので、結果にはあまり自信がありません。
人に教えるのも初めてでしたが、坂下先生に教わったのを思い出しながら、手本を見せました。
一つの辺に漆を渡し、広げながらムラを取る(粗渡しをしながら均す)と説明しながら、実際の作業をしました。
次にSさんに品物を渡し、次の辺で粗渡し均しをしてもらい、手直しするという感じでした。
仕上げも同じようにし、作業ごとに厚さムラを作らず、刷毛もガラス板で均して使うことを説明しました。
端付近は内から外に向かうつもりで斜めに刷毛を動かせば、はみ出ることが少ない。
自分で塗ってみたいという人だったので、指導者に恵まれれば、伸びるのかも知れません。
最後に漉紙に残っている朱を搾りだすと、口がぱさぱさする感じなりました。
車に戻り、バックミラーで見ると、唇から歯まで朱が付いていました。ティッシュで拭きましたが、半ば乾いていました。
まさに漆マミレの日でした。カブレるかどうか?

8月16日(金)  泉清吉さん宅を訪れる

何とかアップロードできてから、ちょうど2年がたちました。
14日に東京方面へ新敷さんの車に乗せてもらって4人で行きました。
3:40am-1:35am、井波の新敷さんはプラス1時間弱、ほとんど1人で運転していました。
寺田さんが自宅前1時間ほど、吉川さんが自宅前1時間ほど運転。
普段軽四しか運転せず、視覚的に問題のある私は乗せてもらっただけです。
カーナビでうまく道を教えてくれるので、助かりました。

時間的に無理かなと思っていた蓮田市も、カーナビで1時間あまりと出たので、一応向かってみました。昼食を食べる場所も途中にあるだろうし、ガソリンスタンドにも寄らねばならない。
うまく見つからないまま、椿山4−20に来てしまい、ぐるぐる回る。ゼンリンのインターネットの地図では、カーブしている辺りにあるはずだと、そんな感じのところを探す。するとあった。車もある。
どこかに食事できる場所がないかと探しだす。スタンドに入り、泉さんに電話してみる。「はい、・・・酒店です」と聞こえたので、酒屋さんにかかったのかと「すみません、まちがえました」と切ってしまった。ファミリーレストランで電話帳を見せてもらい、探したが載っていない。番号をメモし間違えることはあまりないはずだしと、メモを見て前と同じ番号を押してみる。よく聞こえなかったので「泉さんのお宅でしょうか?」「はい」「富山県の砂田ですが、、、」・・・昼食を3時頃食べてから、お土産も持たず4人で訪れた。車庫が空いていたので入れていると、泉さんが車で戻って来られた。
初対面の泉さんは、文章に現れる優しさのままの、優しい眼差しの方でした。

強面だが心の優しい吉川さん、何でも器用にこなす寺田さんがうまく話をつなぎ、何時の間にか2時間半が過ぎていた。
新敷さんが求めた刷毛の毛摘み作業を見せていただいた。
切り出す根本を切るノコギリは、一番先端を鑢で落とし、食い込まないように工夫してあるとのこと。
背が1、2度外になるぐらいに切っているように見えた。
背で木を剥ぎ取る。
鉋刃は先付近を少し鈍角になるように研ぎ、砲弾型に切り出せるようにしているとか。
仕上げは研ぐ側を上にして使っていた。
とても私には真似の出来ない切り出し方だと感じました。
鉋をかける台も、溝を掘って削る板の厚みに応じた支え棒が嵌めかえられるように工夫されていました。
私の方針として、プライバシーを全て公開することは必要ないが、技術は公開し、更なる発展に努めるべきだということがあります。
一部屋であれだけの作業をこなすとは、驚きでした。
そして酒店ではなく、刷毛店だったと気付きました。
突然お尋ねして、温かいもてなし、本当に有り難うございました。

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6月30日(日)  大場先生研究会

日本工芸会富山支部の木・漆部会を中心に、任意の参加もできる研究会が例年通り開かれました。
午前10時頃から午後5時頃まで、20名余りが参加しました。
纏まり過ぎている作品や纏まり切らない作品には、あまり助言が出来ないようです。
どこか問題点のある感じがする作品には、可能性があるのか、いろいろ意見が出ます。

図を描いてくるより、せめて手板でどんな感じになるか分かるまでのことをしてきてほしい。
木目の流れに沿った造形の方が普通ではないか・・・敢えてそうしない事もできるが、、、
次に繋がるような試みがほしい、、、
塗っていくうちに何かしてみたくなることがでてくる−それを大切にする。
やってみたいと思うことは、やれるだけやってみる−そうして初めて、どうすれば良いか分かる。
中心はどこか・・・中心に向かう、、、
箱は何に使うのか、何を描きたいのか、どこでどう生えている植物か、何に感動したのか、、、
形が良いから、一つガツンとしたものを持ってくるだけで良いのでは、、、

大場先生は、満86歳の今でも、自分の歯を18本持っているそうです。
細かい字も、ちゃんと読むことが出来ます。

吸い上げ技法についてG氏の話がありました。
布目による転写ではなく、蒔絵のように置目をして、焼き生漆で描いているのだそうです。
上塗り2、3日後くらいに、胴擦りまで持っていき、描き、2日弱後に拭き取るそうです。
大場先生は、スポンジにつけてぽんぽんとして、吸い上げを良くしていたそうです。
*自分で布を使ってやってみた時、線が途切れ途切れにしか付かなかった。
蒔絵筆の可能性は考えていたが、吸い上げには(塗りというには)許されない気がしていた。
*蒔絵をスクールで習っている時、紅葉を洗い朱の黄口で描いた。
古く乾きが極端に悪くなっていたのか、胴擦りすると、部分的に朱が取れてしまった。
しかし、吸いあがっていた−少しだけ、面白いのかなと感じたものだ。

根本先生の、酸により腐食させた貝の割貝による貼り方を見せてもらったが、非常に繊細な仕事だった。

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6月16日(日)  平山郁夫展(高岡市美術館)

今日は最終日。臨時の屋外駐車場。館内も混んでいた。
下絵が主だったが、穏やかな雰囲気。
仏教遺跡の絵には、あまり人物が登場しない。その当時の人の姿、また現在の人の様子を見るべきなのかもしれない。
悠久の流れなのか、幾多の戦乱を見てきたのか、、、
「正義」が政治、宗教に氾濫する世の中で、単に「平和を」と言うこともその嵐の中に巻き込まれざるをえない。
それでも争いを無くしたい。
アフガン、インド、敦煌など、地域の雰囲気を感じながら、追い求めるものがある生き方。
地球に抱かれる生き方が仏教であろう。

6月10日(月)  ラジオたかおか

高岡市中心部とその周辺でのみ聞く事ができるミニFM局「ラジオたかおか」の番組に出演しました。
毎週月曜日3:15−3:30pmに伝統工芸士や高岡漆器業界の人が漆に関することを話す事になっています。
あまり聞いてほしくないという気がしていたので、ホームページに予告しませんでした。
2時半までに行くようにと言われていた富山新聞高岡会館へ行きました。
パーソナリティの久郷祐子さんと、その場で、何について話すか決めました。
伝統的工芸品に指定されている、彫刻塗り・青貝塗り・勇助塗りの話は、先に出演された方が話されています。
自分の一番したいし、している乾漆の話をすることになりました。
「乾漆とはどういうもの?」、「制作手順」、「乾漆の良さ」、「なぜ乾漆を始めたのか?」「これから作ってみたいものは?」というようなことを質問するから、話す内容を考えておいてほしいという。
文章に纏めると、字を読むような感じになるから、メモ程度にしておいてほしいとのこと。
麻布二枚の話をしようかと、最初の打ち合わせと少し変わることを言っただけで、打ち合わせも余りなく、ブッツケ本番。人前で話すよりマイクを前に話す方が気楽だったと言うか、一人で全部喋るのではない分、少しは楽だった。

麻布を5、6枚貼り重ねて素地を作る技法である事を言ってから、自分の説である布の貼り損ないが乾漆を生んだのではないかという事を話し始めた。お椀に布を貼るとき、丸い形のところを貼り損ない、それを切り取ると布が丸い形に固まっていた、それを見て布だけで素地ができるのではないかと思いつく人がいたのではないか。(お椀は自分の体験だが、例え話として、そういう話し方をする。)
話の前後は思い出せないが(何せ上がっている)、刳り木地から指し物木地へと変わったことで、補強に布を使うようになったと言う自分の説を話したり、漢の時代か、その少し前に乾漆は生まれていることなどを話す。
布を貼り重ねる事以外は、打ち合わせしていない事だったので、予定とは話がずれていった。
ほとんどキレイな久郷さんを見ながら話した。調子に乗ったのか、乾漆は塗り技法の集大成で、それができれば彫刻塗りや青貝塗りなんて簡単だと、本音をついポロリと出してしまった。
麻布二枚での苦労や何とか成功したいという話で、何時の間にか15分が過ぎていた。

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6月8日(土)  石川支部展と「人工漆」

伝統工芸の石川支部展を見に行く。漆に関しては、富山支部が塗り中心の乾漆ばかりなのに、石川支部は蒔絵・沈金が多い。金工を除いて、作家数は圧倒的に石川支部が多い。
中野先生の「波紋盤」は、揮発性が高い溶剤に漆を混ぜて水の上に広げるときに偶然できる模様ではないかと一見すると勘違いする蒔絵だった。よく見ると、全くそういうことはなく、自然にできる感じに手で描いてあった。
技を見せたい人は、いろいろな技術を使っていると、目立つような絵を描く。自分が何を描きたいかではなく、何を見せたいかに関心が移ってしまっている。
もう少し印象に残った作品もあるが、中野先生のが良かった。
金沢は100万石祭りのパレードの日なので、急いで高野漆行へ行き、黒漆、生正味漆、地の粉などを買う。また歩いて金沢駅に戻ると、あと5分で富山方面への列車が出るところだった。
石動駅に着いて、家に電話するも誰も出ない。Aコープでパンと茶を買い、歩いてH病院に向かう。妹のうちの前を通ったが、寄れば乗せてくれということになるので通り過ぎ、結局3キロほどをUVを浴びながら歩いた。

夜、仕事をしていると、NHKで日本の伝統の技に含まれる事を応用した新技術を紹介していた。
漆に関しては、酵素触媒重合をカシューナッツから得られる汁の硬化に応用するものだった。何の為かといえば、漆の伝統だけでは、現代の需要に対応できないということになるか。
漆がほしいのではなく、漆のような害の無い塗料が必要と言っているのである。
artificial Urushiと名付けられたそうだ。京大工の小林四郎教授が人工酵素を混ぜる方法を確立したそうだ。
和紙を漉くときのネリを合成繊維に混ぜて、均一な紙を作り上げる。
日本刀のようにステンレスを鍛える事で、強い刃物を作り上げる。

5月28日(火)  麻布二枚(その2)について

麻布二枚で狂わない素地を作り上げる為、二回目の挑戦をしているところである。
技法の再現を目指しているのではない。
今までの自分の経験から考えられる、最も失敗の少ないだろう方法で作業を進めている。
漆の乾きが不十分な場合、接着に失敗する。乾きを確認するまで、湿度を与えるなどして、待つ。
布目摺りの回数は、布目の埋まり具合に合わせる。
下地を使い、完全乾燥を待つ。
それにリグロインで薄めた生漆を吸わせて、固める。これも乾燥を待つ。
刷毛付けは厚く付きすぎる傾向があるので、隅付近は箆で均して薄くしておく。

浸透性と揮発性が優れているリグロインを使っても、麻布の内部全てに生漆が染み込む事は無い。
目が粗い麻布だから、貼るときに空気穴が残る事が一番心配な点である。
地の粉入りの糊漆を使ったが、締まりが早い。厚く付ける必要がある。
単に糊漆を使うのと、どちらが優れているのだろうか?
隙間を埋めるためには、下地入りだろうが、接着力は糊漆だけの方が強いはずだ。
錆が水分の残る石膏原型で乾かないのは、漆の表面に水分の膜が出来るからかもしれない。
糊漆の場合は、水分を糊が吸収してくれるので、水分の膜が出来ないのかもしれない。

蓋の下地付けの代わりに、塗り10回でやろうとしているのは、今までしたことが無いからである。
棗で、下地付けのと、塗り10回のとを見せてもらった時、後者の方がずっと軽かった。
どちらが狂いが少ないか、ハッキリしない。
硬いという点では、下地入りかもしれない。
柔軟性(割れにくい)という点では、塗りだけの方が強いだろう。

熱処理も十分にした方が良いに決まっている。
もしうまくいったら、再現に挑戦する事だろう。
また失敗するなら、問題点を見つけるべきだろう。

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5月4日(土)  いろいろと

近所で不幸がありまして、7日まで個人的な時間が余り取れなくなりました。満93歳、もう少しで94歳という方でしたが、少し前に自転車に乗っているのを見かけていました。今朝も、仏壇に参っていたそうです。
私の父も、3月21日に入院しましたが、その3日ほど前までは歩く事が出来ていました。私の事を誰か分からなくなって1年ほど経ちますが、年を重ねると突然の出来事が多くなります。
今夕、世話に行っていて、目の前にビールを差し出して、注ごうとしてくれるくれる人がいましたが、声をかけられるまで気が付きませんでした。時々ある見落としが、単なる不注意の所為なのか、失われたところがある視野の所為なのか、よく分かりません。通らない事を願っていた「特定疾患」の申請が承認されたとの案内が、夜帰ると、保健所から届いていました。昼に関する限り、ほとんど自覚症状はありません。世の中に目の見えない人が沢山いることに比べれば大した事ではないはずなのに、、、今のところは、まだ他人の事のような気がするだけという気がするような、、、パソコンの画面で、ポインタがIになっている時、中々見つけることが出来ません。

ずっと気になっていた事の一つに、昔は何を使って漆を塗っていたのかということがあります。手で塗る事はできる。これは別に今有名な人が始めた事ではない。動物の毛皮を使う事も考えられる。藁のような植物を束にして使う事もできるだろう。木の皮や枝を叩いて、繊維状にし、それを使う事もできるかもしれない。然し、どれも人の髪の毛を使う現在の刷毛のようには、繰り返し使う事が出来ない。使い捨ての感じがする、手を除いて。鳥浜貝塚の櫛のような物を塗るには、細く隙間に入っていく刷毛の働きをする道具がなくてはならない。漆を漉した布などを折り重ねて、その先を刷毛代わりにする事も考えられる。分からない事は、本当に沢山ある。「高度な」は、物事を追求しない事を誤魔化す、なんという便利な言葉なのだろう。

5月1日(水)  アクセス数1000

今年の2月2日にカウンターをつけてから、88日間でアクセス数が1000を超えました。
見て頂き、有り難う御座います。
自分の分が140ほどありますが、一日に、自分の分を除いて、最多33、最少2、大体6−10の感じです。
計画性がなく、思いついては新しいページを作ったり、途中でストップしたりと、、、
あくまで中心のホームページですので、「作り方」という方法を書いているページと実際にした作業記録のページとの落差が最大の特徴ではないかと思っています。
薄く付けるといいながら、実際には厚く付けてしまう腕の〇さ、、、
メールを戴いたので、水銀朱のことで少し検索し、「漆塗りは何故朱で始まったか」のページにリンク先を載せませた。
横山善一先生の公式ホームページを見つけましたので、リンクのページに載せました。

UP

4月28日(日) 支部展

素地が狂いまくっていたので、今回は落選だと思っていた。
審査員の先生には、仁和寺の冊子箱を連想できたのかもしれない。
こんな物を出して、モラルが疑われると支部では言われていたそうだ(M氏の話)。かといって、失敗したからと出品を止めれば、サボっていると言われるだけだ。
他の部会の人に問題視されるのは、甘んじて受けなければならないだろう。乾漆には、解明されていない事が残されている。どういう根拠を持つのか知らないが、自信にあふれている人が多い-不思議な世界だ。
どういうつもりか、入り口の一番手前に展示してあった。
今日は当番。作品名をどう読むかという質問を3回受けた。「そくさっしばこ」 その都度、普通の乾漆は布を5、6枚貼るが、これは2枚でどうしようもなかったと言い訳した。1000年前の技法は簡単ではなかった、と。
これで潰れるなら、砂田正博という人物の程度が知れるということになる。
It is declared that I have suffered from RETINITIS PIGMENTOSA by Dr.O of TONAMI General Hospital.
It's not heavy now. Perhaps I won't have much time to do URUSHI work.
A symptom of it is like this.

4月7日(日)  4月2日の続き

目の粗い麻布を下地などに貼る時は、下地が硬化する前に布を押し付ければ、空気穴が残らないのではないか。3月3日の「日本工芸会会報」では、錆下地・「乾漆仏」では綿を混ぜた粘土が柔らかい時(p.92)。
粘土原型に、漆分の少ない下地を何回か付ける。
ここが最大の問題点だ。原型と漆下地とを本当に分離できるのか?
(4.8)棗の切り合口の、水練り砥粉に1/4量の続飯を混ぜたものを離型剤にできないか?
最後の時、糊分が強めの糊漆を付け(地の粉を混ぜる)、厚めの麻布を押し付ける。
もう一枚貼って、下地を付ける。
こうすれば、雄型原型に普通通りの仕事をする事ができる。
型から抜いた後、心棒を何本か入れて、形を支える。余り細かい支え(建物の柱などの構造物のような)を作るくらいなら、木地で素地を作ればよい。
失敗から考えたのだが、どうだろうか?暇になったら、もう一度やり直す事だろう。

今回の方法で気付いた事は、厚い麻布二枚=芯が柔らかいままだから素地の狂いが大きくなるという事だ。
両側をほぼ等しく固めるには、どうすれば良いか。
現在の乾漆技法は、こうした事を解決しているとは言えるが、平安時代には別の方法で確かに乾漆を作っていた。分からない。

4月2日(火)  どうやって?

平安時代に、どのようにして乾漆素地を作ったのか、全く見当がつかない。
木で原型を作ったとすれば、漆がくっ付いて型から抜けないだろう。
粘土だけで作ったとすれば、痩せ込まないように、中に何かを混ぜる必要があると思う。粘土の壁は2センチぐらい必要だ。
離型用に和紙を貼ったとすれば、その上に貼る麻布は、目が細かくないと空気穴が残り、丈夫な素地は出来ない。
直接、目の粗い麻布を貼っても、注意して粘土原型を壊していけば、型から抜くことができる。
今回は熱処理を少々したが、太陽に当てるか、時間の経過を待てば、同じことになる。
ある程度下地付けまで、外側を仕上げてから、型から抜いたのだが、特に長辺がすぐに内側にむけて歪んだ。
多角形など円に近い形なら、全体のバランスで歪むのをかなり押さえることが出来るだろう。
実際問題、内側に4、5回下地を付けないと、素地が動いてまともな仕事をしていくことが出来ない。
身は下地付けで素地が動かないようにした。そうなって初めて、外側を研ぐことが出来る。
蓋は、リグロインで薄めた生漆を吸い込ませることだけで動かないようにしたいと思っている。
昔は、どう歪みを防いだのか。竹ひごが都合がいい場合もあろう。逆の場合もある。
棒で支えを作ったのだろうか。
内側の下地付けも、麻布二枚貼りでは、よく分からないままである。
どうやってほとんど狂わせないで、作り上げたのだろう。

3月17日(日)  反省  

出来るだけ早く着くようにと、高岡郵便局のポストに二通投函した後、氷見市上泉のギャラリーつばさの「本江敏彦金工展」へ行く。洗練されていて差を感じた。
ギャラリー代表の大島さんと名刺交換。「小矢部ですか、、、五社の近くですか、ななしゃ。」「しちしゃです。五社の隣です。」これと同じ会話を今まで4、5人とした事がある。なぜか五社が有名だ。
高岡短大「卒展」へ行く。自分が今している麻布二枚貼りの冊子箱が余りにひどいためか、すごい作品が並んでいる感じがした。漆に関しては、専攻科(Advanced Programs)より学科の学生の作品の方が優れている感じがした。慣れるとなれるというところかもしれない。
自分の事だが、原型が狂ったまま、テクニックによって直しているだけなら、二枚で素地を作る意味がなくなってしまう。
今まで通りの方法で作るだけなら、失敗するかしないかしか、問題はない。
熱処理をしない、下地は後から付ける。こうした方法で、キチンと作り上げる事が課題だ。
自分で初めて我流で乾漆を作ったときも、全く熱に当てていない(太陽にも)し、下地は型から抜いてから付けた。何も知らないから、どう狂うか予想できなかったので、1ヶ月石膏原型にくっ付けたままにしておいた。
結局、原型が正確かどうかが問題だ。

3月10日(日)  金沢で

昨9日、立山連峰を始め、遠くの山々が白い雪で稜線を青空にくっきりと見せる中、金沢に向かった。
高野漆行で生漆を100匁×2桶、日華水銀朱(本朱)などを買う。水銀朱は、製造中止になるものが多いらしい。
水銀朱といったって、別に水銀ではない。同じ化学式で表されたって、くっ付く位置が右か左かで、害になったり無害になったりすることもあるというのに、言葉尻を捕らえて、問題視するのはおかしいのではないか。
同じ物でも、量によって、害になったり薬になる事もある。
辰砂(硫化水銀)が、どういう影響を与えるか知らないので、あまり大きな事もいえないが、、、

金沢文化ホールで卯辰山工芸工房研修者作品展があるのかと思っていたのだが、高野さんで調べてもらうと、卯辰山工芸工房での開催らしい。
中に入るのは2回目だが、全く覚えていなかった。
前に行った時、三池宗逸(三宅だったか、下の名も違うかもしれない)という人の、菊形の乾漆棗を見て、松波保真という方に習ったのだろうが、すごいものだという印象をもった。
受付の人が展示してある場所を教えてくれ、茶室・和室・展示室と見たが、すぐ終わってしまった。
茶室・和室は、中に入っていいのかどうか書いてなかったので、遠くから見ただけだった。作品に触れないで下さいとは、あちこちに表示してあったが、、、
2階に個人別の作品の写真などが纏めたファイルがあり、一つだけパラパラと見たのだが、漆の人ので、鳥浜貝塚出土の、朱漆塗りの櫛をデザイン化したようなのが印象に残った。
その作品がどこにあるのか分からないまま、工房を廊下から見学し、帰ろうとホールに出ると、村本さんの作品などが幾つか並んでいた。櫛の歯にあたる部分に丸みをつけ、鎬を何本か加える事で締まりができていた。
家に帰ってから、作品目録と記憶とを突き合わせて、やっとどこに何があったか、分かった。
ガラスの松下さんという方の、水滴が凍ったようなイメージのは、纏まり切っていない感じだったが、逆円錐のコップの下のほうに、薄いふくらむような線が3本入っているのは、優しい感じでよかった。
アドビのアクロバットリーダーに出てくる人のような印象を受ける作品もあった。

高野漆行で貰った、インターネットの、漆の作品展(石橋さん)につながるアートシティ「展」は、リンクのページに載せておきました。

3月8日(金)  テレビを見て

一昨日・昨日と、NHK教育テレビの「おしゃれ工房」で、栗原氏の漆皮と螺鈿・蒔絵を紹介していた。
途中から見たし、テキストも無いので、見た範囲の事を書く。
四角く、厚みも3ミリとか一定の、牛革などがあるらしい。霧吹きで水を裏表からかけ、好きな形に加工し、放っておくと固まる(やり直したい時は、また霧吹きで水をかければよいそうだ)。
溶剤で薄めた漆(合成漆−実際は漆ではない)を何度か吸わせる。研ぎ、塗りを繰り返して、上塗り。
素人が趣味でするなら、面白いやり方だと思う。
作家がする、微妙な形を作る漆皮は、生皮を使うと聞いている。だから、自分としては全くする気になれなかったが、栗原氏の方法なら、遊ぶのには面白そうだ。

蒔絵は、紹介するに値しないので、省略。
アワビの薄貝を桜の形に切る前、水に浸しておくというのは、初めて知った。
いつか試してみようと思う。カッターで切っていた。
裏に墨汁を塗ると、青貝になるそうだ。
漆を塗り、粘りが出るまで、割り箸の先に両面テープで止めておく。
簡単な貝を貼るなら、上手い方法だと思った。

硬めのゴム板などの上で、薄貝を切る
・直線なら、切り出しとか塗師屋刀などで、上から力を加え、押し切る。
・丸刀や蓮華鑿などで、そういう形に、押し切る。
・釘の頭を、丸とか桜の花びらの形に加工し、縁を細く鋭くする。回し切り、押し切り。
・ポンチなどを利用し、金槌などで叩き切る。
・針を利用して、自由な形に切る。
・貝の上に、薄い和紙を貼り、鋏などで目的の形に切る。
・何枚かを糊で貼り合わせ、糸鋸で形に切り(必要なら鑢をかける)、水で糊を溶かす。
・ガラス板などに、糊で貝を貼る。漆で字などを書く。乾いてから、希塩酸か希硫酸を綿棒などに付けて、漆の塗ってない部分の貝を溶かす。水で糊を溶かす。細すぎると、貝が折れてしまうので、注意。

貝は向きによって、光る時と光らない時があるので、見る方向から光る向きに貝を置く。
特に、作品の場合は、光の向きに注意しなければならない。

漆を薄く塗って、貝を作りたい模様に置いていく。塗る色によって、貝が違って見えるようになる。
曲面に貼る場合は、暫く水に浸けておき、柔らかく弾力があるようにし、ティッシュで水分を拭き取る・・・この場合は、漆に粘りが出、乾くタイミングを計る必要がある。多分、膠の方がこの場合、適している。
乾いたら、貝の周りの段を埋める感じに、薄く漆を塗る。隅出し刷毛などで、隅の漆を貝の上方向に浚えるようにする。貝の上の漆を取り去る時、境の隅の漆も、少し浚えるという感じに作業したほうがよい。
乾いたら、艶消し。上塗り。このときも、同じように貝の上の漆を浚えながら、隅の漆を浚えるようにすると、きれいに塗る事ができる。

3月3日(日)  石膏原型と粘土原型

食籠の粘土原型を作り、石膏雌型、石膏雄型と形を置き換えた。雄型から、2組の雌型を、三つ割にして作った。それを石膏で貼って、2組の石膏雌型原型が完成した。
毎日石膏にばかり触っていると、取り扱いに慣れる。
最初は、久し振りだったので、要領が分からず、面倒だと感じていたのに…まぁ、そういうものだろう。

麻布二枚で、素地を作ることに挑戦中なのだが、平安時代の技法に少しでも近くなるよう、石膏を使わないで原型を作ってみた。
粘土原型しか思いつかなかったので、水粘土を使ってみた。
石膏なら、少しずつ修正していく事ができるし、すぐ固まって狂う事はない。
水粘土だけだと、引き箆での造形がうまく行っているつもりでも、かなり狂っている事に後で気付く。
中の水分のムラでひび割れてきたり、粘土の壁の厚さが薄すぎる(2cm以上は必要だ)と、作業中に割れてきたりする。
乾漆仏を作ることができた技法の実績の上に、麻布二枚での素地作りがあるようだ。
陶芸の粘土扱い、または釜を作る土の扱いから学んでかかる必要がありそうだ。
ムラなく練ること、土に何を混ぜれば割れず、狂わず、最後に取り出す事ができるかを知る事。

「日本工芸会会報105号」のp15に、「文化財保存事業報告」として、人形「衣装人形」伝承者養成研修会のことが載っている。乾漆で素地を作る方法をとったらしい。
詳しく引用する事はしない。油土で原型を作り、石膏雌型に置き換え、離型剤を塗り、翌日、さびを付けるのだそうだ。さびは、水練り砥粉の4割弱の生漆を混ぜるらしい。布も錆で貼るらしい。
疑問点はいろいろあるが、3メートルを超える乾漆仏が沢山あることに対して、人形を作ることで全ての説明がつくのかというのが最大の疑問である。
通常の漆の仕事に比べて、漆の比率が半分である。それ故、湿りの残る石膏でも、錆が乾くのかもしれない。
昔もこれぐらい漆分が少なかったから、9―10ヶ月で乾漆仏を作ることができたのかもしれないと思えないこともないが、、、
「日本の美術 乾漆仏」の阿修羅像に比べると、余りに安易な方法と言わざるを得ない。
自分で挑戦していないので、大きなことは言えないが、習う事を全て正しいとするのは、余りに甘ったれていると言わざるを得ない。世の中は、異業種交流と言うが、私は昔から、異技術交流が大切だと考えていた。専門は大切であるが、それだけでは新しい発想は生まれない。
話は変わるが、展覧会で通用する事が芸術であるとか言いたがる事も気に食わない。個性ということも含めて、そんなものは結果(後からの評価)であって、物作りの目的であるはずがない。人形の研修会の結論である、作者の人間性が作品に影響するというのが言葉で言えることの全てである。

2月17日(日)  このホームページについて

個人的な事情により、更新を続けていたものの内、一部は作業をする時間がなく、何らかの仕事のついでにするしか出来なくなりました。実際にしている仕事のうち、具体的なことは発表しませんが、作業上気が付いたことは「乾漆食籠の作り方」の、関連のあるページに追加しています。興味があれば、ご覧下さい。(2/20粘土原型、石膏原型)
はっきり言えば、展覧会が近付いているということです。

2月15日(金)  二本のビデオテープ

酒井弥先生のビデオをみると、実際の講演の時の方が、良かったと思う。その上、ビデオは音声が余り良くない。
高野さんは、ウルシオールは漆ではない、と言っていた。
酒井先生は、僅かだがウルシオールは合成できたが、乾くためには酵素の働きが必要だと言っている。
人間は、単細胞生物とか、酵素とか、何一つ創り出した事はないということだ。
ウルシオール、ラッカーゼ(酵素)、ゴム質、含窒素物が揃って、漆となる。 2/16水も含まれています。
漆を含めて、エコロジー(生態系)を考えた商品でないといけない。

2月12日(火)  高野さんのビデオ

ダビングを頼んでおいた、高野行雄さんのビデオが届いた(酒井弥先生のも)。
1997年越前漆文化セミナーのときのものだ。漆を語る会に入ったのは、高野さんが世話をしていたからだ。
あと一回入選すれば正会員になれると話したとき、正会員になって、やっと一人前になれるな、という事だった。
1998年金沢展のとき、会ってその報告ができると思っていたが、会えなかった。
後で、年賀の挨拶を失礼しますと案内を受けて、衝撃を受けた。

ビデオの話で、漆には3種類あるという。主成分が、ウルシオール・チチオール・ラッコ-ルの3種。
産地は順に、中国や日本・タイやミャンマー・ベトナムや台湾。

ベトナム産(ラッコ-ル)は、ゴム質が多く、柔らかいし、発色がよい。蝋色も上がるそうだ。
木杯の補修(「修理の記録」)で、最初に塗ってあるのがどういう漆なのか、見当もつかなかったが、ベトナム産かもしれない。
傷を胴擦りして、割合簡単に磨きあがる=柔らかい。艶も変わらない。発色が良い。

ゴム質が少ないと、乾きは悪いが、耐候性がある…チチオールが主成分の漆。
日本の漆と混ぜると、乾くし、強くなる。
このことは、店で話しているとき出てきた。中国や日本の漆を混ぜれば、乾くようになると、現地で話した、との事だった。

小文字のjapanというのが、通じないともビデオで言っている。URUSHI(ウルシ)と言えば良いとも。
ジャパンうるしネットの記事の中で、室瀬和美先生もjapanでは通じない、かといってlacquerと言うのは、おかしいと述べている。
ドナルド・キーン博士のように、英語にも日本語にも、深く通じている人は、何時まで通用していたか、何故通用したか(しなくなったか)まで、考えられるだろう。

茶碗に漆がついて、硬い塊になっているような使い方はするな。チョット、耳が痛い。
漆塗りは美しい。あらゆる塗料は、漆を目指している。今では、漆より強い塗料はある。

長崎国旗事件で、貿易が止まったとき、周恩来首相のおかげで、漆が日本に輸入できるようになった。
恩を忘れてはいけない。日中友好のために力を尽くす。
こうした運動をしている時、付け回された事もあったと言う。「凍土の青春」にも、そういう話が出ていた。
「数学嫌いな人のための数学」p.202から引用しておこう。
特に過激な宗教集団や思想集団などの場合、小さい標本を調査しただけで、「一挙に結論へと飛躍する虚偽」が形成されることが多い。当局やマスコミがこのように宣伝することも少なくない。

漆の仕事の習いがけの頃、13、4年前か、生漆を平べったいブリキの菓子箱にあけ、真夏の太陽の下、箆でゆっくり回しながら、水分を抜いていった事がある。鉄分と化合して、黒漆ができると本にあったので、釘を2、3本入れて、回し続けた。少しも変化しない。粉にしたほうが良いかもしれないと、釘を鑢で削り、また回し続けた。すると、少し黒くなっていった。塗ってみても、刷毛直りが良くなり、生漆とは明らかに違う漆になった。
このことを高野さんに話した事がある。鉄粉は5パーセントほど混ぜると言う事だった。錆びたのはいけない。

2月10日(日)  晴れている

これなら、輪島へ行けるという天気。仕方がない。

2/2に読売新聞に載っていた、正高信男・京都大学霊長類研究所助教授の「7万7000年前の"抽象"」という記事が気にかかっていた。
スキャナーの使い方をプリンターで印刷し、「基本操作」に従って、OCRで取り込み、ワープロ感覚で間違いを直した。WORDにデータ転送し、そこからコピーして貼り付けてみた。割合簡単だった。
自分に理解できないことに近付くヒントになりそうである。
以下が、新聞記事の終わりの方です。

空間視の機能が第一であり、形態視の能力はあとから発達したのではないだろうか。そして、ここ数万年間に起こった人類の生活の、見る行為への依存の劇的な高まりは、同時に視覚以外の感性の貧困化の過程でもあった。それにもっとも鋭敏に反応したのがアーチストだったのかもしれない。対象の形態視情報を意識的に捨象し、個々の輪郭線の長さと方向と位置関係のみを残すという、現代抽象画で確立された斬新なスタイルと、今回発見された古代人の描画の奇妙な一致を偶然と片づけることはむずかしい。単に網膜でとらえるのではない。聴き・嗅ぎ・触れる際の感覚を、受け手が、主体的に想起しなけれぱ分かりづらいメッセージを、敢えて画家が作品を介して発するようになったがために、両者には多くの類似点が認められるのではないだろうか。

2月9日(土)  輪島へ行く

予定では、10日に行くつもりだったが、前日より10度以上気温が下がり、雪が降り出したので、積雪の少ないうちに行くことにした。明日は、前先生の解説の予定。
小矢部市の芹川でR8に入ると、前の車が急にスピードを上げて走っていった。舗道から自転車が車道を横切ろうと出てくるような感じだった。自転車の人が飛ばされた。100mほど先の出来事だったが、徐行して近付くと、飛ばされた少年が立ち上がり、歩いていた。自転車も、反射灯の破片が道路に少し見えるだけで、壊れていないようだった。そこから100メートルほど先で車をとめて降りてきたのは、中年のオッサンだった。自分も中年の、、、
時間を節約しようと、能登自動車道に白尾インターで入る。210円、210円、310円で穴水。家を出てから2時間ほどで、輪島漆芸美術館に着いたのは、10時40分頃だった。
美術館の友の会の会員は、入場無料になった。因みに年会費は1000円。

第19回日本伝統漆芸展輪島展。
去年展示されていた最初の室に、今年も展示されていた。
絵画を観るときもそうだが、他の人は何を感じているのか、不思議に思うことが多い。換言すれば、自分の中に感動がないということになるか?
1時間余り居て、入館者は自分唯一人だった。
本展でも間違いなく入選すると思う作品と、絶対入選しないと思う作品が、幾つかずつある。その中間にあると思う多くの作品の良し悪しが良く分からない。
自意識過剰な作品は、自分の好みではない。芸術家ぶる作品はつまらない。
個性を目指すことが目的ではない。この世に生を受けたことを自分なりに表現することが大事である。
「乾漆水指」のつまみに細い線を入れたのだが、坂下先生の漆皮盤を見て、自分が苦労したのと、まったく別の方法で独楽塗りをしているのだと感じた。

暗くなるまで時間があったので、下の道を帰る。二回、道を間違え、かなり遠回りしてしまった。帰りは3時間ほどかかった。山道を避ける津幡回りは、金沢・輪島間より距離的には遠いかもしれない。往復258km。
2/6視野検査を受ける。顎と額を台に当て、中央の橙色の光を見ているとき、何か光を感じたら、スイッチを押すという検査だ。片目ずつ調べる。検査が始まったというのに、何の変化も感じない。一時中止し、離れたところから検査をする装置を見ると、かなり強い、白い光が順にあちこちで光っている。あぁ、そういうことかと分かった。また右目から検査開始。何の変化もない。30秒ほどして、中央付近に白い光を見た。それからは、あちこちに光を感じた。少し休んでから、今度は左目。要領は分かっている。やはり30秒ほど何の変化も感じない。順応速度が遅い。昨年の年末には、レンズ一枚が2万円ほどする眼鏡に替えた。数年前から、対向車のライトへの反応が異常だと言われていた。暗くなってからの運転は怖くて仕方がない。

2月4日(月)  立春の卵?

ラジオで「立春の卵」の事を話題にしていた。毎年の事ではある。
中谷宇吉郎先生の随筆にも、そのことが書いてある(昭和22年4月1日)。
釣り合いの安定・不安定。球と平面の接触面積は、球の半径と目方と物質の弾性とによってきまる。
卵表面の凸部間の距離は、10分の8ミリほどあり、中心をうまくとれば、、、

  (1996年1月1日子供が中3のときに立てた写真)

2/2に、やっとカウンターを入れることができた。
何度やってみても出来なかったのは、HTMLについて分からない者に、中途半端な説明しかないからだ。
プロバイダーの説明は、これをコピーして貼り付ければ出る。全くでなかった。
「こんなに簡単 ホームページを作ろう」を真似ても出来なかった。
コーラルネットのホームページで、カウンターがついているのを右クリックし、プロパティーを見てみた。
それと、プロバイダーのタグを比較し、コピーしたタグのうち、不必要なのを削除して、やっと画像が出そうな感じになった。
<img src=というのがダブっていたことになる。それも正しくない場所に、入ることになった。
画像の挿入、「保存場所から」をチェックし、プロバイダーのURLを入れ、プロバイダーのタグをコピー・貼り付けした。
プロバイダーのURLを自分で入れるようなタグ自体が、不親切である。
更に、タグの一部が、コピーしたものと貼り付けたものとで、別の文字に入れ替わっている部分があった(HTMLの編集ができる状態にして、比較すると気付いた。機種の違いによるのか、キーボードの設定の仕方によるのか?)。
NHKの「中高年のためのパソコン講座」でつかっていたFrontPage Expressとは違い、旧いソフトなのでHTMLの編集ができる状態にしても、そこにコピーしたものを貼り付けることが出来ない。
細かいところは、タグをメモし、自分で打ち込むしかない。
888888という画像が、I.E.で出るようになり、もう少しだと思った。
HTMLを見ても、間違いはないし、これで駄目なら、どうしようもない。
アップロードしてみると、000001と表示されていた。

1/22にピロール農法の黒田さんよりメール。
「漆を語る会」の酒井弥先生の近所に住んでおられるとか…《2001年版8月25日》参照
ピロール与作( 黒田与作 )
ピロールHP
http://www.pyrrol.com
Eメール yosaku@pyrrol.com ( 事務所)
        p-yosaku@me.ttn.ne.jp (自宅)
安心・安全・健康はピロールから!

北海道は、人生で二番目に長く住んでいた(4年間)場所。
メールを出して北野隆志先生にリンクしてもらう。
北海道での漆関係は、カリンバ3遺跡。
網走での漆の木の栽培、漆の採取。
屯田出身と言っていたKさん。
泉さんのHPに登場するKさん。

カリンバ3遺跡のことを取り上げなかったのは、私の考えでは、日本の遺跡で発掘されるのは、漆器と言うより、「朱器」と呼ぶ方が相応しいからである。

凍土の青春  軍隊・戦争−シベリア抑留」(栗田義一)
連絡先:019-0321秋田県雄勝郡雄勝町秋ノ宮字中山74
 電話:0183-56-2171

母が書道の通信教育を受けていて、そこで知り、買ったそうだ。
ソルジェニツィンの「イワン・デニソビッチの一日」のようには、表現できていないが、実体験を忘却の彼方から呼び起こそうとする姿が感じられる。
兄と妹がいた(いる)母にとって、唯一の兄がシベリア抑留中に亡くなっている。
曾祖母(母にとっては、祖母)が、父との縁談話が来ていると伯父(母にとっては、兄)に相談し、それに対する返事(軍事郵便)などを、母は持っている(蔵のタンスの中)。
県庁に勤めているとはいえ、江戸時代には医者で、寺小屋を開いたりしていた母の実家とは、格が違いすぎるという事での相談だろうが、大正末か、昭和始めに大没落したことで、こういうことになった。
もの心がついた頃には、豊かな家ではなかったので、伯父の返事は「正喜兄ならよろしいのではないか」というものだった。中国の場所を推定できるような事を書いたらしい部分は、青鉛筆で消してあった。検閲である。
家からよく物を送ってくると、戦友から言われるということを書いた葉書きもあった。

*後から、暇を見て、追加しました。

1月24日(木) −2月11日(月)  読書始め

「数学嫌いな人のための数学(数学原論)」(小室直樹・東洋経済新聞社)を20日ほどかかって読む。
正月に、1年半振りぐらいに会った高沢君が、数学に凝っているというので、何となくこの本を買った。
宗教とか、経済(資本主義)との関連が書いてあるようなので、考えも及ばない発想のような気がした。
読んでいる部分、部分では何となく分かる気がしたが、全体を思い起こそうとすると、何も残ってない。

「正しいか正しくないか」の、いずれであるかを判定できる文章のことを命題propositionという。
形式論理学formal logicが完璧無欠な論理学であるのは、三つの基本原則、同一律、矛盾律、排中律を確立したからである。
同一律 the law of identity
     AはAである。   という法則。
矛盾律 the law of contradiction
     ・AはBである。
     ・AはBでない。   という二つの命題があるとき、
     両方とも真である(正しい、成立する)ことはない。
     また、両方とも偽である(正しくない、成立しない)こともない。
排中律 the law of excluded middles
    矛盾律…・AはBである。・AはBでない(Aは非Bである)。のうち、必ず一方だけが成立する。
    これ以外はない、中間はない。

同一律を正しく使うためには、定義definitionを一義的にuniquely下しておかねばならない。

矛盾律…「矛盾」の語源である、韓非子の「矛」と「盾」の話は、形式論理学の矛盾かどうか?
    a…この矛はどんな盾でも貫く。
    b…この盾はどんな矛でも貫けない。
    命題aと命題bとが、両方とも真であることはありえない。
    命題aと命題bとが、両方とも偽であることは、あり得るか、あり得ないか?
      偽であるということは、例えば、aは「矛は鈍らでどんな盾をもつらぬくというわけにはいかない」、
                   bは「盾も鈍らでどんな矛でも貫けないというわけにはいかない」
           と言い換えることができる。 こういうことはあり得る・・・両方とも偽であることはあり得る。
   つまり、韓非子の「矛盾」は、形式論理学では反対contrarietyである。
p.95矛盾絶対禁止の大原則が、数学に背理法(帰謬法)という絶大な威力をもつ研究法を与えた。
p.97ロバチェフスキーが、背理法を用いて非ユークリッド幾何学を建設して以来、自明な真理であると看なされてきた公理the axiomは、仮定a hypothesisにすぎなくなった。
 *axiom : statement accepted as true without proof or argument

すべて(全称命題universal statement,universal proposition)
一部(特称命題particular statement,particular proposition)
p.102全称命題は特称命題で否定し、特称命題は全称命題で否定するのが論理のルールである。
 *例「すべての生徒は優等生である…命題」を否定すると、
   「ある生徒は優等生ではない」となる。 命題の「は」を「が」に置き換えて、「すべての生徒が優等生であるということはない」つまり、「一部は劣等生であったり、普通であったりする」と考えても良いのか?
p.104一神教的絶対神と人間との契約が、古代イスラエル人の宗教の根本教義となったために、正確綿密な論理学を発芽させ育成させていった。

p.123経済学において概念の数量化(数学化)が急速に進展し得る所以は、その根本となる所有概念が形式合理化(計算可能化、数学化)したからである。・・・近代資本主義においては、所有は、絶対化し、抽象化した。このことによって、所有は数学化したのである。
p.146所有(権)者であるための法律上の根拠(権限)さえあるならば、所有権者であるのです。

p.166背理法の形式
  T証明したいこと  Po
  U仮定        非Po
  V仮定からの結論 偽なる立言
  W結論        非Poは偽。ゆえに、Po
ジレンマdilemma両刀論法の例をあげて説明してあり、その場合は、最初の契約が、自己矛盾self-contradictionを含むことを表しているという。(p.167-168)
p.178幾何学研究法は、真理発見から模型構築model buildingへと革命的な飛躍があった・・・・・この幾何学革命を機軸として科学全般にわたって、研究の態度は、真理の発見から模型構築へと革命的な飛躍があった。このコペルニクス的転換を成し遂げた論理こそ、矛盾律を基にする背理法であった。

p.179数学の証明技術を理解することで、近代科学の限界を垣間見ることもできる。例えば、数学に帰納法という技術がある。・・・近代科学は帰納法によって発達してきた。・・・
帰納法inductionは、「ある特定のものについての判断」つまり特称命題particular propositionの前提から、「すべてについての判断」つまり全称命題universal propositionの帰結を得る推論である。
p.182科学は、この「正しいかもしれない」ことを「正しいこと」にすりかえる帰納法によって発展してきたのであった。
p.189-190ある結果の原因は何であるか実験で確かめようとする。
原因らしいもの、a,b,c,.....,zを考えてみる。いま、b,c,......,zを一定(つまり不変)にしておいて、aだけを変化させたとする。このとき、やはりその結果が得られれば、aが原因であったと推論する。このやり方を変数の分離という。
p.196帰納法にも完全帰納法はある・・・それは・・・数学的帰納法mathematical inductionである。
「すべての自然数について成り立つ」命題を証明する証明法である。ガウス…等差数列の和の公式…

p.214  いま、p,qを命題propositionとする。p,qは正しいとする。
     pならばqであるとする。
     このとき、pはqであるための十分条件sufficient condition。
          qはpであるための必要条件necessary condition。
p.217 pならばqで、かつqならばpのとき、pをqの必要十分条件という。このとき、qもpの必要十分条件である。
    pとqとが必要十分条件necessary (and) sufficient conditionのとき、pとqとは論理的には、全く同じことである。pとqとは、同値equivalentである、という。
  例・・・二等辺三角形と二等角三角形。
p.218あらかじめ定義されていることとの矛盾contradictionだけは許されませんが、これ以外には、どこへ行こうと、論理は自由なのです。

古典派the classical school経済学派・・・アダム・スミス、リカード、ミル、マーシャル、ピグー
一言でいえば、「自由市場はベストである」、すべてうまくいく、不都合は起きない、失業はない。

マルクスは、産業予備軍説という学説を展開して、資本主義には必ず失業が出ることを証明した。
巨大な富は不平等に配分される、資本主義に失業は必ず出る。
失業をなくすには、資本主義をなくすることである。
p.227この命題は、当然、マルクスの学説から出てくる。つまり、「資本主義をなくする」ことは、「失業をなくする」為の必要条件である。
論理的には、「失業をなくするためには、資本主義をなくさなければならない」ということと、「資本主義をなくせば失業はなくなる」ということとは違う。しかも、「資本主義をなくすこと」は「失業をなくす」ことの十分条件であるとはマルクスは言ってない!マルクスの理論から論理的に言えることでもない!(〜p.228)

p.229-230失業が出るかどうかは、セイの法則Say's lawが成立するかどうかにかかっている。
「セイの法則」とは、供給が必ず需要される(Supply creates its own demand.生産したものは必ず売れる)という法則である。

対偶の論理・・・例としてAを猫、Bを動物と当て嵌めて考える。
「AはBである。」の対偶contrapositionは、「BでなければAでない。」
*もとの文章が正しければ、対偶は正しい。同値equivalentである。
逆は、「BはAである。」・・・成り立つ場合と成り立たない場合がある。
裏は、「AでなければBでない。」・・・成り立つ場合と成り立たない場合がある。
*逆と裏は、必ず同値関係にある。

古典派経済学の、最も基本的な命題:
 市場を自由競争に任せておけば、経済はうまくいく。
対偶:経済がうまくいかなければ、市場は自由競争に任せられていない。
*1930年代、大恐慌時代・・・ピグーArthur Cecil Pigou
 自由競争に任せられていない市場が一つでもあれば、最初の命題は成立しない。
 あった、自由競争に任せられていない市場…労働力市場。
 失業が出れば賃金率が下がる、労働力の需要が出る・・・まだ失業があれば、更に賃金率が下がる、、、
*1980年代後半
 あった、過大な預金保険制度の存在こそが市場の自由を阻害している、、、

ちょっぴりの数学で理論経済学the theory of economicsの極意が
方程式equation…特定の数値のときにだけ成立する。解くsolve…解solution、根root
恒等式identity…証明するprove
*ケインズ理論のエッセンスの有効需要の原理…方程式
*古典派のエッセンスのセイの法則…恒等式

p.259セイがいいたいことは、結局、個々の市場では、「供給が需要を作る」といえるとは限らないが、国民経済全体では、供給は需要を作る、ということです・・・古典派の学説。

「自由市場はベストである」という命題:
消費者が効用を最大にし、企業が利潤を最大にし、みんなが市場で自由に売買すれば、資源の最適配分the optimal allocation of resourcesがなされる。
p.262その「ベスト」でも、労働者の生活水準は生存ギリギリであり、資本家は破産ギリギリである(リカード:人口が増大している資本主義経済の貧困化法則)。
p.264すべての資源はベストに使用されることになる。
p.265失業・・・古典派は、理論が正しくて現実が間違っていると言いとおしたんです:
 市場で淘汰…効率を上げる方向…新進気鋭の新企業、新企画…失業者を吸収
p.267セイの法則が成立するなんていう公理を、勝手に・・・要請しようと、理論上は、模型構築者the model builderの自由です・・・しかし、実証上は、その模型が現実的妥当性fact fittingを有するかどうか、模型構築者には答える責任があります。

ケインズの「一般理論」は難しすぎた。
p.269ケインズになって、一気に国民全体の需要や供給から考えることにしたのでした。
国民所得national income
国民生産national product
消費consumption,投資investment,輸入import,輸出export…諸変数variablesは、みんな巨視的macro、すなわち日本国民全体に関するものであるとします。
国民需要national demandとは、消費財の需要と生産財の需要。

p.274ケインズは、国民需要national demandを有効需要effective demandと呼びました。
有効需要が国民生産national productを決定する。有効需要の原理:
 Y=C+I    Y:yield(生産物) ,C:consumpion ,I:investment   最単純ケインズ模型。
「需要が供給を作る」Demand creates its own supply.
セイの法則の正反対です。
右辺は国民需要、左辺は国民供給national supply。
国民需要と国民供給とが市場で等しくなった、市場で均衡しているmarket equilibriumことをあらわす数式、方程式equationです。
p.276一つ市場で、需要と供給が等しいことを表す市場均衡の方程式は、その商品の価格を決めるのですが、国民経済全体での市場均衡の方程式は何を決めるのですか!…国民生産Yの数値です。
最単純ケインズ模型で考えて、国民所得は国民生産に等しいと考えておきます。
p.280成立するとは限らない・・・存在条件the existence condition,安定条件stability conditionの問題、、、
p.278経済学者は、貯蓄がみんな投資されればセイの法則は成り立つ、とよく言います。
せっかく有効需要があっても、これが満たされない例・・・crowding out(閉め出し)生産力が不足
⇒有効需要の原理が成立せず、セイの法則が成立するための十分条件。 
  「資金不足」でも、セイの法則が成り立つ。

最単純ケインズ模型は、いくつかの仮定のうえに立ちます。
 1外国はない 2政府はない 3時間はない 4経済人以外は存在しない
p.298経済システムの中にあって、互いに作用・反作用を及ぼしあっている諸変数、すなわち、相互連関関係mutual interactionの中にある諸変数を内生変数endogenous variableと言います・・・YとC
 Y=C+I   消費関数C=aY (a:限界消費性向marginal propensity to consume…大体0.8だそうです)
投資関数I=定数I
p.316需要関数q=D(Y)=C+I=aY+I
   
供給関数q=Y   この2つの交点が、均衡点。
p.318均衡条件equilibrium condition、存在条件existence condition、安定条件stability conditionと、三つの条件が揃って始めて、相互連関のための分析システムは完璧となるのです。でも、これらは大変高度な理論ですので、しばらくはさし置いておけばよろしい。

乗数理論multiplier theory
p.320投資Iが変化したとき、国民生産Yがどれだけ変わるかを分析する理論です。
p.321最単純ケインズ模型の内生変数YとCとは、相互に連関し合っていますから、はじめ、Iが変化すれば、Yが変化し、それがCの変化に波及します。Cが変化すれば、その変化がYの変化に波及します。そのYの変化が、さらに、Cの変化に波及します。……5倍になる。

p.322の無限等比数列の総和の証明は書いてない。自分でも、普段考えていないので、浮かばない。数Tか数UB で習ったはずと、教科書を探し出して、さらさらと見直した。
初項a、公比r(0<r<1)として、無限等比級数の総和をSnとする。
Sn=a+ar+ar2+ar3+ar4+…+ar(n-1)+…         (式1)
 rSn=ar+ar2+ar3+ar4+…+ar(n-1)+arn+…      (式2)
(式1)-(式2)とすると、丁度、上と下の重なっている部分が、消える。
(1-r)Sn=a-ar=a(1-r)   r は、無限に0に近付くので、結局a
Sn=a/(1-r)

p.324恒等式(セイの法則)には、もう一つの意味があります。売買が全部終わってしまった後のことを表す事後式です。絶対に正しいことを述べているだけで、何の法則も表しませんし、何の説明もしません。

まだいろいろ書いてあるが、詳しくは、本を買って読んで下さい。
この本で使っている数学は、高校1年の基礎で学ぶ程度なので、難しくはない。
それを使いこなせるかということと、書いてあることは理解できるということとは、随分違う。
難しいことを、理解しやすいよう、易しく説明できる能力は、大変なものである。
単なる学校秀才と違い、そういう人は滅多にいない。知っている中では、R君ぐらいだ。

1月2日(水)  仕事始め

ホームページより作品を、これが自分の課題だろう。
最早作られることのない、8寸丈の、泉清吉仕上げの二分刷毛を切り出すことが今年の仕事始めだ。
塗師屋刀を研いでかかる。
昨日再放送されていた「削ろう会」の研ぎ方を思い出しながら、刃の当たり具合を感じようとした。
子供が習った方法は、向こう側にのみ、一方的に研ぎ、砥石をかなり頻繁に研ぎ合わせて、水平を保つというものらしい。裏刃を水平にするというのが、前提条件としてあるのは、共通している。
上手な人は、塗師屋刀だけで、箆を削りだす。しかし、世の中に砥石が存在するということは、もっとも精密な仕上げは、砥石によってもたらされる事を示すのではないか。
刷毛の場合も、同様であろう。
砥石でキチンとした形に仕上げ、叩いて柔らかくする。
生漆を吸い込ませ、拭き取る。

どう作るのが良いのか分からない、麻布二枚で素地を作る冊子箱の、身の粘土原型を2時間ほどかけて、完成とすることにした。
ある程度乾かして、その後どうするか???

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