麻布を数枚、糊漆で貼り重ねて素地を作る技法のことを乾漆技法と言います。
1998年秋、乾漆は木地に布を貼り損ない、その浮いた布の断片が木地の形に似ていた(貼りにくい形のところが浮きやすい)のをヒントにして生れたのではないか、と思いついた。
手許に「古代出土漆器の研究」(岡田文男・京都書院)があったので、布が最初に使われたのがいつなのか調べてみました。
日本では乾漆の方が古いくらいで(正倉院には一部、布着せした木製の鏡箱などがあるようです。漆皮箱にも布着せがしてあるそうです)、やはり中国で布着せが始まったようです。
岡田氏が実際に顕微鏡で見た範囲では、秦か漢代の、小判形の奩(レン)に布の糸断面が見られるのが一番古いようです。乾漆の品も余り時を経ないで出土しています。大西長利先生によれば、その100年程前の戦国時代には乾漆の技法があったそうです。
大倉集古館の夾紵大鑑が中国戦国時代の作といわれているようです(「日本の美術 漆芸ー伝統工芸」p91)。田口善国先生の図録にその記録があった気がしますが、それを持っていませんので、今は調べようがありません。何か固まりを積み重ねるようにしている感じだったような、、、「麻の一番純粋なものを使って、麻の薄い熨斗状のものを裂き紐に編んで作り出した」(p91田口先生)もので修理したとありますから、麻布を貼り重ねる技法までは行っていないようです。
日本では、奈良の当麻寺の四天王像が最古の乾漆仏と言われています。藤原鎌足の夾紵棺(京大考古学教室)が、木心乾漆造と言えるようです(加藤寛先生)。
仏像が最初に出てくることは、技術的にありえません。
日本の遺跡で、布を貼った漆器が出てくるのは8世紀末の長岡京のようです(岡田氏)。
技術から考えれば、全く逆の道を進んでいます。このことは、塗りの技術が日本では追求されなかったことを示しています。
たまたま布を使うことがあっても、その意味をはっきりと自覚していないので、伝承されることはなかった。
中国では二千数百年前に布を使う意味を理解していたと言える。高々100年や200年続いたことを伝統(工芸)と言う日本では、布のことをどれだけ理解しているのか、甚だ疑問である。丸盆の端周りを布で補強するのが第一歩だと言うことさえ知らない職人がいる。本流の漆の流れは、日本では千年余りである。
何故布を使うようになったのか。
木工の技術は刳ることが基本です。単純に考えれば、刳った木地を組み合わせて指物木地を作ります。
指物木地の補強のために布を使ったと考えるのが自然です。
では何故、刳るだけでできる器を指物で作るようになったのだろうか。
大量生産をするため、工房で分業体制がとられるように漢の時代にはなっていたようです。
内に深い器は、刳るより、底板と側面を別々に作り、組み合わせた方が楽に作れます。
統一国家を目指す時代の流れの中から出てきたものと思われます。
底と側面の接着の補強に布を使ってみた。角あたりで布がプカプカしているのに気づいて、切り取った。
漆で固まった布が曲がったままだった。あと何枚か貼り重ねると布と漆で器が作れるのではないか・・・
こういうふうにして乾漆技法の発想が生れたのではないか。
漢代の乾漆は箱物が多いようです。換言すれば木地でもできる形です。
最初は新しい作り方が面白かったのかもしれませんが、そのうちに土も原型に使うようになっていったのかもしれません。
乾漆の品の良いところはどこにあるか。
厚みを薄くできるから入れ子に向いている。軽く、丈夫である。自由な形に作ることができるし、布を貼り重ねるごとに緩やかになっていく。
出土品としては、母奩の中に七個の子奩をセットにしたものなどがあります。
手間はかかるし、漆も大量に使う。これが乾漆が廃れた原因だろう。紀元後少ししての楽浪遺跡からは木地に布着せした、現在の技法と同じ水準の漆器が出土しています。
麻布はガサガサしているので漆とくっつき易い。
木綿に比べて丈夫であるし、漆が繊維の内部まで染み込まない。
使うのでないならば芯まで漆が染み込んだ方が強いが、それでは繊維の弾力性がなくなってしまう。
木地に麻布を貼るのは、補強、痩せこみ防止、しかしそれ以上に軟らかい木地と硬い漆の繋ぎとしての働きのためである。経験を重ねることでいろいろな意味が見えるようになります。漆に麻布が欠かせないことが、乾漆が優れていることを証明しています。
*2001年9月24日追加
漆刷毛の泉清吉さんのホームページのリンクに中里さんのページがあり、前に一度見ていたがしっかりとは見ていなかったのだろう。昨日、「漆刷毛注文記」を見た後、「略歴」(これは前に見ていた)、「書籍」と見ると、『中尊寺金色堂と平安時代漆芸技法の研究』(中里壽克著 至文堂)とあるのに気付いた。
作品が売れたときにしか、高価な物は買えない。「泉清吉」仕様の刷毛を買ったのも、ほしいと思っていたこの本を買ったのもそうした時だった。
定価48,000円とあるが、消費税が5%に上がった後なので、それよりも高かった。
このページの、すぐ上の〔繋ぎ〕をクリックしていくページに、中里さんの著書から引用していたところがある。
余りに分厚い本なので、少し読んでそのままになっていた。名が「壽」と「壽克」と違うので、同じ人だとは気付かなかった。
今朝久しぶりに取り出してみて、いつものように流し読みをしていると、400頁に布の箱のような絵があるのが目に入った。加藤寛さんの『漆芸品の鑑賞基礎知識』(至文堂)で見ていた「宝相華迦陵頻伽蒔絵そく(土篇に塞)冊子箱』だとすぐ気付いた。目次を見ると511頁以降にもっと詳しく書いてある。目のきわめて粗い布が二枚重ねに、麦漆で貼ってあるのが、基本構造のようだ。
蓋は甲から側面に一枚の布で貼り、側面の四隅で余分の布を切り取り、貼り重ねてあるらしい。
身は側面を一枚の布でぐるりと巻き、底は別の布を持ってくる。意外にも、下手な布貼りらしい。
蓋と身の縁周りには、麻紐が四条(3ミリ幅ほど)に巻かれていて、補強と考えられる(その様な補強をした作品は割りに多いそうだ)。
麻糸の状態から見て、上から軽くかぶせ、それをそのまま麦漆で押さえたと思わせる貼り方がしてあるそうだ。
下地は意外にも薄いそうだ(0.5ミリを越えることは無いそうだ)。しかし、表面の蒔絵部に痩せこみが少ないことから、漆分の強い下地と推定できるらしい。木の粉を麦漆に混入することはしていない。
内側は、段などを埋めようとしたためか、漆分の少ない下地を、少し厚めに付けてあるそうだ。漆分が少ないせいか、痩せが見られるそうだ。千年以上経っているのにほとんど狂いが無いそうだ。
夏の直射日光の下に何日間か置くという熱処理ぐらいはしておかないと、狂いを止めることは出来ない。
乾漆仏はかなり短期間に作ったらしいし、狂いを防ぐ何らかの方法があったのかもしれない。10月1日追加
布目はどう埋めたのだろうか。下地でないとすれば、漆を塗り重ねたのだろうか。
「漆の本−天然漆の魅力を探る-」(永瀬喜助 研成社)p118あたりに、水分をほとんど抜くクロメが漆の耐久性構造を作る重要な仕事とある・・・当然の事ながら、ウルシオールの成分比が増える。
生漆の方が、下地に浸透しやすい。内側の下地に漆分が少ないということは、後から生漆を吸わせるという技法を知らなかったと推定できる。何度も生漆を吸い込ませるという素地固めはしてないのではないか・・・経験的に熱処理以外で狂いを防ぐには、生漆を十分吸い込ませるしかない(麻布にも)。
しかし、そうはしていないようである。結局、クロメ漆という固い膜で被うことで固めたと考えるしかない。
布の貼り方が緩かったので、布の伸び縮みがなく、自然に布が広がっているような感じのままと同じ状態といえるのかもしれない。極めて厚い布というのも、伸び縮みを少なくしているのかもしれない。10月12日追加
麦漆に木の粉を混ぜなくても、麻布を細かく切った繊維を混ぜる方法があると気づく。
作品を作っていて、麻くずをミルサーで綿状にしたものを混ぜて刻苧にして使っていた。考えてみた。石の上に麻布を置き、石で叩けば麻を細かくできるだろう。刻苧で布目を埋めるというような工程が無いと、目の粗い布目が痩せ込まなくなるまで抑えられるとは考えにくい。
「日本の美術 乾漆仏」(久野健 至文堂)のp49に、乾漆仏を作るのに9ヶ月から10ヶ月を予定していたとある。
p85から『阿修羅を造る』という対談が載っている。何回か読んでいるが、狂いを防ぐ方法は書いてないと思うが、、、麻を混ぜる方法は書いてある。
2008年小矢部芸文報
「乾漆」とともに 砂田正博
「乾漆」という言葉を聞いたのは、社会科で仏像に「脱活乾漆」と「木芯乾漆」があると習った時だった。カシューを経て、36才で漆を習い出し、39才で漆の道を目指そうと決めた時に思いついたのが「乾漆」であった。
乾漆とは、麻布を5〜8枚、糊漆で貼り重ねて素地を作る技法である。形を考え、そのために作った制作道具で粘土原型を作り、それを石膏原型に置き換える。離型用の糊の膜を作り、下地付け、細か目の麻布貼りから順に中心に向かって粗目、また外に向かって細か目と貼り重ね、下地付けで素地ができる。
狂いを防ぐため、天日干しなどの熱処理をし、石膏原型を壊して型から抜く。原型段階ではできない微修正を下地付けや研ぎなどで繰り返す。数回漆を塗るなど、通常の漆器と同じ作業で仕上げる。布貼りの枚数が多い分、大量に漆を使うが、乾固後は狂わず、壊れ難い。麻布は芯まで漆が染み込まず、弾力を残し丈夫だが、木綿は芯まで漆を吸い込み、反って脆くなるので不可である。
形が自由に作れる分、貼り難い形の所で貼り損ない、布が浮いてしまうことがある。そこを切り取ると、糊漆で固まっているので、そのままの形が残っている。昔の人が乾漆技法を思いついたのは、木地に麻布を貼り損ない、それを切り取った布片を見たからでは?と思いついた。今でいうセレンディピティである。古代、漆は土器や刳り木地に塗られていた。補強用の麻布の必要性は指物木地の出現を待たねばならない。調べてみると、今から2200年以上前の中国の秦代出土の奩(箱)に布が貼られていて、乾漆(夾紵)の品も少し遅れただけで出現している。生漆から水分をほとんど抜き(クロメ)、均質化(ナヤシ)させた素グロメ漆は、朱の顔料の辰砂をきれいに発色させるために考案されたと考えられる。麻布貼り・塗肌・艶・きれいな朱など、現在に繋がる漆芸技法は中国漢代に完成されたといえる。(指物木地、麻布の貼り損ない、素グロメ漆の3点セットは学説ではなく、砂田の私見)
乾漆の制作を通して、物作りが先人との協同作業(使う心、技法、知恵、、、)だと感ずるようになった。廃業あいつぐ伝統工芸の世界だが、新しい使い方や表現法を工夫し、漆器を使いたい人や漆で創ってみたいと思う人が増え、自然を生かす伝統文化が続いていくことを願っています。(日本工芸会正会員)