漆の話 2007年版

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掲示板

麻による漆工房〕 〔漆三昧〕 〔麻縄作り〕 〔山中
失芸から漆芸へ〕 〔麻布による補強〕 〔輪島へ〕 〔風呂吹き大根
茶会〕 〔五箇山和紙〕〔五箇山和紙は有効〕 〔食器〕 〔アミカル
梨地漆〕 〔支部展・炭化〕 〔彫刻展・支部展〕 〔ルーター〕 〔漆は?〕 〔俊三
使う漆器〕 〔NEXT展〕 〔夏休み〕 〔漆の作業〕 〔伝統工芸展
防災訓練〕  〔修理〕  〔アミカル展東京展〕  〔違い

12月30日(日) 違いが・・・

題をどう付けたら良いかと迷う事態の中にいる。
unhappy endとかWell begun is half doneの反対とかホンモノとニセモノとか宗教者の眼力とか、、、
そもそも書いても良いことなのかという自問もある。
非公開の中では不眠の状態になったとき記述済みだが、、、
行間を読むとは、入試など学力の世界では、筆者の露骨には書かない本音を掴むことを意味するが、インターネットの世界では、読み手の自分本位な勝手な感想という程度のものが我が物顔でまかり通る。
たとえばメクラという表現を使えば、言葉狩りを本性とする正義の味方は差別用語撤廃を声高にして攻撃してくるだろう。
そこにあるのは、正義の自分であり、そういう宿命にある個々人の人生は関心さえ持たれない。
また別の見方をすれば、シツメイに心が奪われていれば、死の恐怖に心が奪われることが相対的に少なくなるという面もある。
勉強したことはないが、先入観的に信用したくないのが心理学だ。
統計的に傾向を誰かが纏めたのだろうし、それを後継者が観察を重ね、訂正して出来上がっているのだろう。
そこまでは学問的だが、いつか倒錯し、個々人はどうでもよく、学説のみが大切になる。
生きる方向に向かうべきといっても、人間に屑はないといっても、個々人を支えるのは、せいぜい一日か二日だ。
何かはわからないが、根本的に何かが抜けている。

年内に納めれば、喜んでもらえるだろうと何とか木魚を仕上げた。
予想外の、請求額が高すぎるという対応。
新品は1万5千円から2万円というのが相場だそうだ。
戦前の木魚(中に戦前の小さな新聞の切り抜きが入っていた。安寿さんの女心を感じさせる広告の切り抜き)でさえ、下仕事は手抜きそのものというか、漆器の普通の仕事からすると考えられない、パテ仕事で済ませてあった。
下仕事がきちんとしてあるのなら、修理も難しくはない。
行間を読む必要がないように書くなら、手抜き仕事を直すのは、新品を作るより遥かに時間がかかる。
木魚といい、仏壇といい、漆器の普通の仕事からすると、考えられない下仕事しかしてない。
上塗りだけは、それなりにできている(縮みやゴミも見えるが、許される範囲だと思う)。
ミカケと見えない仕事を見抜くのは、眼力では難しく、時間や環境が結果として示してくれる。
生計を立てる最低限度(時間給1000円)で計算し、材料費など(朱を練るとか、糊漆を作るとか、刷毛洗いなど、全く時間に含めてない計算である)を勘で足しての請求である。
漆という細いながらやっと見つけた人生が、手抜き仕事と金銭的に比較され、全面的に否定されたに等しい。
人間の、個々人の内面の苦しみをどこまで理解でき、生きる方向に導くことができるのか、心理学者といい、宗教家といい、信用ならないと言うしかない(という自分がまた情けない)。
気が弱いながらも、鬱病にならないのは、自分を外から見ることができるからだとは分かる。
今流行りの自分、自分病は、他人への無関心、単純に言えば、他人も自分の知能の範囲内の存在とみなす傲慢さでしかない。
昨日叔母に話して少しは心が軽くなった。
小台も渡し、これで受注もほとんどなくなった。
仕事をした以上、対価を受け取るのは当然である。
他人の人生を否定しておきながら、それに気づかぬ宗教者。
受け取った金銭は、別の形で全額、自分のもとから去らせる。

12月2日(日) 第20回記念アミカル展

11月30日(金)の22:34石動発の「能登」で高岡まで、「北陸」に乗り換える。
全車満席との社内放送、ひどい振動のまま走り続ける。
長岡かどこかで向きを変える時か、静かになってかえって目が冴える感じがしたり、、、
寝不足のまま6:19の定刻に上野着。
JR、西武とも、予想外に早く着き、一駅前で降りる。
買い物できるのはコンビニぐらい、しかし朝の7時では売れ残りの感じの弁当、、、
2ヶ月半ほど前に通ったはずの道を行くと、無事に着いた。
朝食を食べたりしてから、9時20分頃、また駅に向かう。
有楽町線直通の電車は超満員で到着したが、駅を出るときは空席が目立つほど。
銀座の料金精算機で精算し、階段を上って地上に出る。
アミカル展の葉書を手に持って、matsuyaとの位置関係を確認しながら探す。
地図に載っている別の建物の名とも合わせ、少し遠回りをしたが、何とか見つけることができた。
まだ10時半だったので、時間潰しに賑やかな所に戻ってみる。
自分とは関係ないし、興味もないところなので、少し歩いてから、あまり大きくないビルの所に戻る。
建物の中に入り、エレベーターがあったので、6Fまでいく。
「分かり難い」と聞いていたのだが、そういう事はなかった。
会の人が4人いて、前日には知事も来たそうで、その記念写真も飾ってあった。
島さんとは、幼稚園から高校まで一緒だったそうで、Iクンと呼んでいたそうだ。
初日二日(月・火)は、柳田先生の関係(東大の教え子)が多く来場したそうだ。
横山さんの同期(芸大・彫刻)の人も訪れていたそうで、その中に熱心にスケッチを続けている人がいて、それを見た会の人は皆、素晴らしかったと言っていた。
昼食にすぐ近くの店に入る。
富山県と変わらないというか、まだ安いぐらいの値段だった。
会場に戻るとき、1Fの画廊が開いていているのを見て、何故6Fの画廊が分り難いと仰っていたのか分かった。
連絡でも貰わない限り、ビルの入口に入ることはない。
自転車で来ると言っていた子供がやってきた。
1時間ほどかかったが、すぐ分ったとのこと。
会場では横山さんの列品解説が始まった。
写生ではない表現に作家の精神性が感じられる、、、
善悪など、なんでもそうだが、二面性を持つのが人間、、、
入口の芳名録に記入している、見覚えのある姿が目に入った。
漆刷毛師の泉清吉さんと会うのは2回目。
子供と一緒だったこともあり、泉さんも若い頃父に連れられて回ったとき、よく後を継いだらといわれたが、できないと返事していたと話された。
朱の色は、辰砂(水銀朱、正確には硫化水銀U)の粉を水に溶かして沈殿させた時、一番重い本朱が下に、その上に赤口、淡口、黄口と分かれる、、、
あまり定規に頼らず、目測で作業をしてしまう共通点があるようで、よく刷毛の幅が微妙に違うと言われたりするそうだ。
側面の紐(縄)は内側から引っ張って、入り隅のある形で張りがあるようにしている。
麻布2枚で作り、熱をかけて狂わないようにしたとき、布は割れてしまったのに、麻紐を巻いたところは壊れなかった、それでその丈夫さに気付き、補強と模様を兼ねることを考えるようになった、、、
香合の内を何分刷毛で塗ったかと質問され、よく思い出せなかった。
普通は5分刷毛を少しずつずらして、刷毛の打ち込みが枕刷毛の間に収まるように塗るとは思うが、ひょっとしたら3分刷毛かもしれない気がしたり、、、
いつの日かの再開を約す。
木魚の刳りこんである間(5,6oぐらいか)を塗る刷毛について質問しようと考えていたのに、その場では思い出せなかった。
金継を習っているという、Yさんの姪(ピアニスト)のOさんが、漆について質問された。
塗ったままでは残る刷毛筋を、青桐で作った炭で研ぎ、チシャで作った炭でその研ぎ跡を消し、砥の粉とゴマ油などを練ったもので磨き、、、、、、
演奏は残らないが、作品は残るから良い、、、
帰朝して若者が何か変だと感じ、早稲田に入り直し、道徳について考えた。
アメリカの道徳教育がどうなっているか知りたくて留学したが、、、
ガンジーのような無抵抗主義はなく、あまり得るものはなかったとのこと。
入場者数は247名。(関係者は含まない)
7時までに会場を開けてくれと言うので、少し早目に片づけを始める。
搬出の車も何とか駐車できるようになり、無事終了。
打ち上げに、車で帰る人と地下鉄で帰る人に分かれ、F宅で合流。
近くの中華料理店。在京のKさんを除き、F宅で宿泊、2次会。
翌日は、今後の会のあり方、富山展のことなど、、、
車で一緒に帰ろうと誘われ、そうすることに。
目白駅でキャンセルしようとすると、特急券もいるとのこと。
乗ったつもりで諦めることにし、ぐるぐるまわって、やっと子供の所に着く。
預けてあったものを受け取ると、キャンセルの手続きをしてくれるというので置いてくる。
結局、会場で2時間ほど一緒にいただけの感じの上京になってしまった。
大観さんの住居に寄り、そこを出たのが12時ころ。
高速で長野経由、妙高あたりでは積雪が残っていた。
新潟県に入る頃から、それまでの好天とうって変わって雨風が強くなった。
倉庫に片づけてから、Nさんに自宅まで送ってもらう。7:30pm着。

11月4日〈日〉 修理

身近なところからとはいえ、修理の依頼が増えている感じがする。
お椀の修理は、古いのを研いで塗り直しただけのは、熱湯に負け、少し音がするようになった。
螺旋状に麻紐を内に貼ったのは、今のところ大丈夫らしい。
麻布を貼っても良いが、経験的に、麻紐を内側全体に貼ったのに比べると、亀裂が生じやすい。
どこまで修理すべきか、迷うところ。
木魚は、一つだけ先行させて完了した。
朱は返しを取り、かなり日本産漆も使っているので、見た目には丁度良い感じ。
木に彫っただけのは、何とか塗り仕事が出来るほどまで、緩い感じ〈彫りの鋭さを消す)にもってきた。
大きくて、木片を継いだりしてあるのは、布一段分を彫りこみ、布を貼ったので、面に不自然さは無い。
もう朱塗りが出来るほどになっているとは思うが、時間が取れない。
今日は尺八の修理依頼。
竹を二つ組み合わせて吹くのだそうだが、隙間が大きくなり、空気が抜けてしまうのを直して欲しいとの事。
塗りだけで良いとのことだが、塗師としては、合口がぴたりと合わないと納得できない。
作品ほどまでは行かなくても、そこそこまでは仕事をしたい。

昨日は、先行仕上げの木魚を届けた。
その前日にyahooの方のHPの画像の、金箔のもさもさしたのを毛棒で払い、貼り残しの無いのを確認した。
午後から伝統工芸の金沢展に金沢21世紀美術館に行く。
入ったのは3回目ぐらいだが、会場がなかなか分からなかった。
北陸特集でNHKでやっていた特集番組で見ていたのと、展示してあるのと印象がかなり違った。
テレビでは大きくアップされ細部までよく見えるが、展示品は小さい!
細かい仕事が余り目立たないようにしてある。
アップされても破綻が無いと言うところか。
解説は淳次先生。きゅう漆を中心に解説するとのことだった。
麻布が芯まで漆を吸いこまず、中に柔らかさを残すので、素地に適している。
木綿は中まで吸い込むので、ぱりぱりと割れてしまう。
狂いの無い素地を作ることを皆いろいろ工夫しているが、乾漆が一番狂い難い。
彫漆は塗り重ねるから、素地は乾漆で無いと持たないとのこと。
日本産漆は時間が経つにつれて良くなるとの事。
私の水指については、麻紐で線を作ってあると話されていた。
入り隅付近は、確かに、締めることで紐が動いた感じの所はあった。
今日、中野先生の解説を聞いたと言う妻の話では、麻糸で仕掛けをして線を作ってあるようだと仰っていたとの事。
錆での線なら、わざわざ山形にはせず、片側を凹面的にすれば、反対側は凸面にするなど、柔らかい表現をするのが普通だ。
そういうことから見抜かれたのかもしれない。
昨日は、後で中野先生も来られ、向こうから今日はと先におっしゃられてしまう。
会場を出、キャッシュコーナーへ行こうと大和に向うと、入り口付近でまた淳次先生に会う。
駐車させてもらっていた高野漆行で、木魚の修理をしている事など、かなりのじかん話していた。
質の良い麻布や日本産黒蝋色漆〈遅口〉、地の粉などを買う。
石動駅でアミカル展最終日の上京用の切符を買う。
夜は妹の家の祭りに行き、また飲み過ぎの感じ。
ウルソ配合の胃薬のお世話になり、無事に今日を迎えた。
今日は日曜美術館で正倉院展の特集番組を見る。
鳩にオリーブの平和の象徴が、ペルシャあたりで花食い鳥になり、地域的な鳥でいろいろ表現され、日本に伝わった。
それが日本的に松と鶴になっていったそうだ。
アミカル展の作品を預けに行き、真田紐を買ってから、美連展の作品を預けようとしたが留守。
結局、宅急便で送ることにしたが、こんな事では来年から考えないといけない。
小矢部の作家展に自転車で往復。
この二日間、ほとんど漆の仕事が出来なかった。

10月21日(日) 防災訓練

朝から地区で防災訓練。
県境を震源とする大地震が起こったという想定。
トヤマという名の防災ヘリも参加していた。
AED講習への参加者名に載っていたので、その時刻に会場に行く。
人が倒れているのを見たら、助けを呼び、意識がないと119番に連絡し、できればAEDを持って来てくれるよう頼む。
必ず〈連絡後〉、戻ってきてくれるよう念を押すのも大切だそうだ。
倒れている人の額を左手で押え、顎骨を右手の中指と人差し指で押して持ち上げ、気道を確保する。
約十秒、左耳と頬で呼吸があるか確かめ、目は胸が動いているかどうか確かめる。
反応がない場合、ガーゼなどを口に当て、鼻を押えて(空気が抜けるのを防ぐ)、2回人工呼吸(息を普通に吹き込む)。
続いて胸骨圧迫を30回(1分に100回のペース。世界にひとつだけの花?とかいう曲のリズム)。
乳頭の中間に手の付け根を当て、もう一つの手と重ね、垂直上辺りから、体重をのせて押す。
肋骨が折れてもよいくらいの感じの力で押すのだそうだ。
人工呼吸2回、胸骨圧迫30回を5セット繰返し、呼吸が戻ったか約10秒確かめる。
反応がなければ、また5セットを繰返す・・・
AEDが届けられたら、人工呼吸−胸骨圧迫を一人が続けながら、別の人がセットを袋から出す。
右上が×でないことを確かめ、上中央の電源を押す。
音声ガイドに従って操作する。
パットを右鎖骨下付近と左横腹部に貼る。
(ペースメーカーをつけている人は数センチ離す。アクセサリーとか毛深いとか汗も処置してかかる)
パットのさし込みを装置に繋ぐ。(必ずパットを貼った後)
心室細動だと装置が判断した場合、胸骨圧迫をしている人など、近くの人を倒れている人から離れてもらう。
音声ガイドに従い、人が離れていることを確認してから、下中央のボタンを押す。
回復しなければ、また胸骨圧迫を続け、音声ガイドの指示を待つ。
人工呼吸より、胸骨圧迫が大切だそうだ。
救助隊の到着まで。

午後からは、木魚の彫刻とその付近を砥石で研ぐ。
ガタガタが何時までも残る感じで、時間ばかりかかる。
錆を見る。
昨日の朱の上塗りは、糸屑などのゴミがあったし、刷毛筋も思ったより残っていた。
しかし、問題になる程ではない感じ。
湿度を最初から高めにしておいたのだが、発色から見ると、間違ってはいなかったと思う。
朱は乾燥が遅いので、完全乾燥まで加湿が必要だろう。
明日からまた虚しい日々が始まる。

9月24日(月) 伝統工芸展

土曜朝、石動で停車する特急に乗る。
全部売り切れという指定席の車両はガラガラ、自由席は金沢でほとんど埋まっていたが、何とか座れた。
高岡で自由席乗車の人は、東京まで立ち通しだったはず。
3年ぶりの上京だが、何となく丸の内側から出る。
皇居方面に行き、何となく歩いていると、警備の前を通って門の中に入っていく人がいたので、入ってみた。
無料で入れたが、三の丸尚蔵館は休館と表示してあった。
旧江戸城の、松の廊下跡、本丸跡、、、実をつけた植物、、、ビルの見えない位置にいると東京とは思えない静けさ。
何とかとれた連絡に合わせ、1時少し前に、中においてあった公衆電話で電話する。
実はもう(伝統工芸展を)見てしまっていて、今までとは違う印象を受けたとの事。
歩いても近いと言うので、大手町から三越本店に向う。
ためしてガッテンで言っていた、最初にさらさらと全体を見て回り、後から気になった作品をじっくり見ていくというのを試そうとしたが、さらさら回りで終わってしまった?
どこにあるか分かったのは、漆の展示を見て回った最後頃だった。
出すときは、紐を貼って(巻いて)、両隅を錆で埋めた線の上が朱に見えた気がしていたが、全体が同じ調子の溜め塗りにしか見えなかった。
摘みの側面回りも、紐を巻いたのを朱と白を塗り重ね、研ぎ出して平面にした模様が見えなかった。
紐巻きの山の高さは、あれが限界かなという感じがした。
S君の方で何とか連絡が取れたY君もやってきた。
電話がかかったときは、30キロを走ってへろへろになってシャワーを浴びていたとのこと。
いろいろ探して、やっと大丸でマスの寿しを買うことができた。
地下街で旧交を温める。マラソンや駅伝、、、
H君はどこもho海douの社長になっていて、マラソンのゴール付近で世話(?)をしてくれた、、、
Y君の奥さんが何やら言ってくれているとの事。
以前から渡そうと思っていたの渡したり、、、
子供との約束時間を言っておいたので、それに間に合うようにしてくれ、練馬駅に8時20分過ぎにつく。
33年前と駅が違うし、区役所も看板を見ながらも、よく分からない。
少し遅れて着くと、中を従兄弟と二人で捜していたらしい。
後から気付いたが、当時は開かずの踏み切り、今は高架。
食事がまだだというので、店に入り、また飲む〈飲み出すと止まらなくなる悪い癖〉。
6畳に3人並んで寝る。

日曜は、用がある二人はそれぞれに向う。
かねぼうの空き地だった所の傍にあった下宿はまだ残っていた。
表札がKさん(下の名は変っていた〉、窓がアルミになっていたり、、、
池袋でまだ9時前だったので、歩く事にした。
予定は無かったが、六本木にできた施設に行こうかと何となく思って歩いた。
時計も持ってないし、地図も無い、ずっと昔の記憶というか、感覚だけで歩き続けた。
伊勢丹、表参道、、、渋谷まで行くとまずい気がしてずれていったが、青学、、、
青山がどの辺だったかも記憶から消えていたし、六本木がどこかも地図的に思い浮かばない。
前日の話を聞いて、こちらも長距離を歩く気になったのだろうが、かなり疲れてきていた。
交番があったので聞く。二つ先の信号が西麻布で、そこを左に曲がり、すぐ二手に分かれるから、その右に進みなさいとの事。
そう進んでいるはずなのに、立っているという警備員が見えて来ない。
学術会議とかあった傍にくると、やっとそれらしき建物が見えてきた。
どういう展覧会をやっているかも知らずに、新The National Art Center, Tokyoに到着。
(帰宅後、地図を見ると表参道をそのまま歩き続ければ良かったらしいと分かる)
疲れで一度座ってから、二つのうちどちらにしようか、、、アミカルの野村さんが発表しているのが新制作展だったと思い、そちらにした。
佐藤忠良といえば、以前富山の市民プラザで舟越保武との二人展を観た事がある。
大きいのや小さいの、具象のや抽象のや想像的なの、、、
屋外展示からまた室内に戻り、やっと見つかる。
顔の細部を省略した、見詰め合う感じの母と子の像だった。
絵画の方は、さらさらと見ながら済ませてしまった。
乃木坂駅と直結しているとあったので、地下鉄に乗ることにした。
JRが乗り放題という事もあり、新橋で降り、立ち食いでうどん。
まだ時間があるので、御茶ノ水駅へ行き、神田神保町の古書店街に向ったつもりが、道を間違えたようだ。
かなり遠回りして着いたが、昔ほど本に興味が無くなっていると感じた。
歩いても同じ感じがしたので、そのまま三越に向う。
会場をさらさらと見て、一階下へ行く。不在だったが、赤丸が並んでいた。
天気予報が外れ、ほとんど雨が降らないまま、八重洲地下街へ歩く。
土産を買い、新幹線まで時間があるし、駅弁を食べる場所はないか、、、
予約状況を見ると、越後湯沢行きのに少し余裕がありそう。
別にする事は無いし、20分早めのに乗ることにし、自由席の所へ行く。
何と東京駅でその車両に乗ったのは自分一人だけ。上野で一人。
接続の喫煙可の車両(そこしか空いていなかった)、実際に吸う人がいた。
「立身出世」などという話をしている乗客がいた。

月曜は、珍しく休日(だから、二日間、東京にいる気になった)。
電話があったというメモに気付く。
Y先生の芸大院の同期の12代三輪休雪先生が新装なった大和で個展をしているのに会いに行かないかという。
三越並に混んでいて、列車で行った自分を除き、駐車場探しでかなり遅れて他の人は到着。
川豊で昼食。
argentが物言う世界など生々しいのもあった。
蛇の道にいようとするなら、リョウシンとかキレイごとは捨て、それに浸るしかない。
*会員というのを辞め、*国際出品の方がよいのでは、、、
親の美術館を維持しようとするより、自分の作品を並べた方がよいのでは、、、
人間国宝に関しては、池ではなく、海から見つけ出すべきではないか、、、
鑑査委員さえ経験していなくても認定される事があると反例をあげた(砂田)。

29日(土〉。3回熱湯を入れて臭い消しをした(と思う)縄胎杯を包む。
還暦祝い用と個人用などを持って行く。
修理に小台を預かる。
午後は電機屋、銀行の出張所、便りの配布、、、
木魚の研ぎは砥石では難しい気がしたので、ヤスリを使ってみる。
彫りが多いので、砥石では研ぎ切れない。
時間がかかるし、きれいに研げない。
上京時の印象を纏めると、ずっと歩いて回った所為か、賑わっているところから1本道がズレルだけで静かだと気付いた。
漆が相手にされるのはどちらだろうか?

30日(日)
木魚の彫刻部分は、それに適した形の砥石がないから、ヤスリで削るしかない。
漆が硬いからか、ヤスリの切れはすぐ悪くなる。
水をつけると、研ぎ残しが目立つので、荒砥で研ぎ直す。
思ったよりは楽に研げていった。
リグロインで薄めた生漆を吸わせ、余分のを布で拭き取る。
叩くものだから、漆器のように形をきちんと見えるように作っても、振動で剥がれる可能性があるので、丸める事も必要だろう。

9月16日(日)漆の作業

漆の作業で時間がかかること、例えば塗りは、休日にしかできない。
この制約は、制作の進行を遅らせる。
1週間前に仕上がっているはずの縄胎杯、昨日、内側に白漆の塗り直し。
木魚の方は、木片を嵌めたり、虫食い跡など深い穴の所を刻苧で埋めたりしたのが乾くまで、次の作業ができない。
使っていた糊漆がかなり古い臭いがしていたので、別に煮て米糊を作り、生漆を足し、合せ直す。
漉したりもするから、この作業も時間が無いとできない。
ずっと注文とか依頼の仕事しかしていない。

昨日は猛暑日になったらしい。
白塗りを終えてから、自転車で福岡駅まで行き、富山へ列車で。
インターネットで出してあった地図の記憶に従い、高志会館。
どこに行けば良いか見回していると、Yさんが呼びにおいでる。
Kさんが、テレビで漆掻きの番組を見たと言われる。
たぶん浄法寺だろうと話す。今は輪島や岡山でも漆を栽培している。
金工の香炉など、今は求められなくなったものが多い。
インターネットのオークションでは、*評議員の*模様の箱の作品が12,000円だったそうだ。
カシューの一般商品より安い。
輪島塗りの蓋付きの蒔絵椀10個が6,000円とか。
ホームセンターの拭き漆だけの椀と同じぐらい。しまっておく箱があるそうだから、こちらも安い。
Y先生の木彫も、15,000円だかだったそうで 、出した人は作家名さえ知らないようだったそうだ。
日本の伝統文化が伝承されていない。
売れるものがない感じなどと話が続いた。
帰りの列車は、高岡止まりが二つ続いてやっと金沢行きまで50分以上。読書。
帰りの自転車、知っている道でも、向きが変わるあたりで止まりそうになった。

今朝は、約束通り、朱塗りの縄胎皿を受け取りにおいでる。
木魚を見せたりもした。
午後から石動駅に行き、乗車券を買う。
3連休の所為か、指定券はほとんど売り切れだった。
翌日が平日の上京は、今の体力では無理なのでやめることにした。
予定で決まっているのは、宿泊先だけ。
自宅の200mほど前で、車の窓にポツリと来たと思った後すぐ、土砂降り。
雨上がりの後、アスファルトから湯気が昇っていた。
糊漆を合せ直したり、リグロインで薄めた生漆を木魚に吸わせたり、、、

8月15日(水) 夏休み

11日(土)は、午前中に眼科。午後、中塗り。
夕より列車で富山へ行き、歩いて越州まで。途中、新しい大和や朝日印刷があった。
竹内先生の逝去(満90才)。羊蹄会で30年先輩にあたるらしいが、会えずじまいになった。
横山先生のデンマークからの帰朝報告。
写真に鳥居らしいものが見え、子供がブランコをしているのがあったので、誰の作品か尋ねた。
日本以外にも鳥居のようなものというか、感覚があるのかと思ってしまうところが、自分の感覚のズレとでも言えるところ。
実は先生の作品で、上下のバランスが絶妙と絶賛されたとか、、、遊べるのが条件だったそうだ。
暑い中をまた歩いて駅まで戻り、上手く4分後に発車の列車があった。
夜道の運転を避けるために列車に乗った。

12日(日)は、朝6時から宮の整地関係(を見ていた?)、その後、豆畑に水をやるための作業をし、午前が終わった。
帰省した子の運転で回り、買ったロータリー網戸の取り付けを始めるも、暗くなり中止。

13日(月)は、豆畑の潅水の続き、ロータリー網戸の取り付け。
毎日行っているところで、この二年余りの間に3人が「全員解雇」というのになった話など。
東京の空はここの1/10ぐらいしかない。たまにこういう空を見ないとおかしくなるとか、、、

14日(火)は、輪島へ。能越道の無料区間の高岡IC−氷見ICを利用し、海岸沿いに七尾へ。
漆芸美術館の「人間国宝認定記念 きゅう漆 小森邦衛」展。
肩のあたりに網代が目立つ作品は初めて観た気がした。
会場のビデオでテレビのインタビューを放送していた。
中塗りは擦りつけるように力を入れて、何回かするそうだ。
上塗りは毛の長さも長め、厚さも厚めで(中塗り用刷毛と比較しての話)、漆を載せるようにするそうだ。
帰宅後読んだ図録の解説に「特に何かを盛るというのではなく、一種の造形です。」とあった。
自分としては、こういう言葉が欲しかったので、嬉しかった。
津山さんの本ではないが、作家の手を離れた(完成した)時点で作品は作家のものではなくなるはずだ。
具体的説明が必要とすれば、その作品が単純化されていないからだろう。
地震の被害は、更地になっているところが全壊したのかなと感じさせるだけだった。
美術館と朝市駐車場に寄っただけなので、つまりちょっと見だけなので、全体の事は言えない。
帰りはのと島水族館。入場料が合計で5000円を越えた。
作品のヒントは感じなかった。

15日(水)は、墓参り。最初のところで妹家族を偶然会う。
帰宅後、少し歩いていき、甥の今後の目標などを聞いていた。
漆の話になったときは、ネットの活用とか売り手、、、
古いアルバムを見ている傍で見たりしてから帰宅。
M君が来ていったというので、電話。
1年振りに再会。子供の事や仕事の事。
制作中の漆の品を見せたり、、、

8月4日(土) NEXT展

午前中はいろいろと過ごす。
額のことも少し話す。
「鶴望壽」と書いてあるのではないかとの推定も、、、
メールは二ヶ月近く開いていなかったそうだ。
午後は銀行に寄った後、砺波市美術館へ行く。
「第10回NEXT 日本画・京都からの表現」 入場料600円。
今回で終わるというだけあって、2007年制作の大作が並んでいた。
「柊野五色椿」りえ子さんといえば、スプレー菊が咲け咲けと描く印象が強い(単に個人的な?)が、金地に負けない椿の表現をしていた。
蒔絵でも対応できる世界と感じた。
こちらを向く花が幾つもあるのは、写生ではありえないだろう、感性の世界。
「北の命」ヒグマの毛並みといい繊細に表現されているが、描き過ぎの感じ。
二作を無理に一作にしたようで勿体ない気がした。
「桂林(時空)」アメリカの渓谷なら乾燥した感じだが、湿り気を感じさせる。
「ドンブラコ」一寸法師の感じだが、横の広がりが気になった。
逆にそこを削ってしまったら、狭苦しく、人生を感じさせる事はなくなるだろう。
「竹取物語」顔は現代的だが、どの場面なのか、よく分からなかった。
右側で嘆いているのは誰?中央のかぐや姫は何を考えているのか?
いまはとてあまのはごろもきるおりぞきみをあはれとおもひいでける(だったか?)ではないようだが、月からの知らせが届いた?
評論家ではないので、この程度しか書く事はない。
野崎さんの七宝展。
思い出して熱くなるものがあった。
今の自分には受け継ごうという気力はないと言わざるを得ない。
二日続けての不眠症。
頭脳労働ではないという意味で肉体労働だと言う人がいるので、筋肉労働と言うがその割りには寝つきが悪い。
漆の仕事を余りすることなく、通夜へ。
自分に近しい世界を思い出したりしていた。
どうしても光を追ってしまう。
4年前の一番最初の視野検査と比較すると、左の方は自覚とは違いほとんど変化はないようだ。
右の方は光を感受できない部分が少しだけ、、、

(5日)昨日ほとんど漆の仕事をしなかったので、今日は二回塗ることを目標にした。
隅出し刷毛を使う塗りを最初にすることにした。
縮みができないよう薄塗りをこころがけた。
35℃、40%をさしていたが、茶碗の中の黒漆が少し白っぽい膜が出来かける感じになっていた。
湿度が高いときほどではないが、乾きが速すぎる漆。
乾かす間、香典(預かった)返しをもっていったり、生家に寄ったり、、、
西風が強かったが、自転車で行動。
ケーブルテレビの番組だというので、エコロジーのため、近くのコンビニに行くのに車ではなく、自転車でと言っていた。
エコエコというなら、漆を使えとも言うべきではないかと思ってしまう。
帰宅後、漆桶の空になったのをポンプ小屋の棚に移した。数十個。
塗りが乾いていたので、反対側の艶消しをして、塗る。

7月8日(日) 使う漆器

新日曜美術館で漆は使ってこそ価値があると言ったという角偉三郎の特集。
japanと凝りもせず話し始める。
Dさんに聞いてみようと思いながら機会を逸した。
こんなエピソードがあったらしいが、言ってなかった。

それともう一つ、ミャンマーの漆は手についてもどこについてもかぶれません。そういう性質の漆なんです。だから日本では漆を扱ったり塗るのに刷毛を使っていますけれども、向こうは刷毛なんてそういうものございません。何を使っているかと、「手」を使って塗っております。まさに塗りの原点です。
これはちょっと余談になりますけれども、我々が行く前に輪島市がミャンマーあたりに調査団を出しておりますけれども。その第1回の調査団に参加された方がそれを見て、「塗りの原点はこれだ」と感動されまして、帰ってきてからこの方は、もともと沈金師だったんだけれどそれをすっぱり止めてしまって、塗師の方に転向しております。それも手で塗って仕上げると。ここまでお話すると、その方がどなたかということをお気づきになる方もいらっしゃると思います。

(備中漆復興事業10周年記念 漆フォーラム (社)林原共済会 p40 磯井先生)

漆の生き残る道はどこにあるのだろうか。
使ってみたいと感じさせる何かが必要なんだろう。
角の場合は、木との共演なんだろう。
自分の場合は、陶器と同じ感じで使っているから、使うほど艶が出るという事はない。
水に漬けっぱなしにしたり、陶器とぶつかったり、、、それで壊れ難いことを第一に考えてしまう。

二週間前の続き。
明治初期の師範学校では英語の授業はなかったのだろうか?
勉強する為の辞書なら、英和辞典の方が役に立つとはいえる。
五百が知っていたかどうかも不明だが、知っていたとしても小事と考えたのか?
昨日、パソコンを立ち上げたとき、メールがきていた。
今日は、インターネットが繋がらない。

6月24日(日) 大谷俊三

昨日は、「となみ野美術展」の開会式に行く。
自分の作品に比べ、皆さんのは仕事がしてあるなぁーと感じた。
直球ばかりでなく、変化球を交えて、、、とNさんが話された。
観客なら会派的に好みで感じられるだろうし、作家ならテーマとか技法でだろうか?

午後からは、母の実家の先祖に関する取材の件で出かける。
朝日印刷という会社が135周年を迎えるにあったって、記念誌を発行する事になっているそうだ。
最初の出版物(たぶん、富山県での最初の活版印刷らしいとのこと)である「英和単語図解」の翻訳人に吉川雅雄と大谷俊三という名が載っている。
砺波郡七社村 とある点を含めて、関係があるか、何かわかる事があるかという依頼が桂書房の勝山さんからあったそうだ。
江戸末から明治の初めにかけてのことだから、資料となるものがほとんどない。
読んでもすぐ忘れたり、間違って記憶してしまう傾向の私の記憶だが、「*三」というのを見たことはあった。
生家にある地価台帳の写し(明治8年)に、その名が地主となっている土地の多くが、後に「兵」と鉛筆で書きこまれ、所有が変ったことを示していた記憶があった(後の名は、祖父の生家)。
借りた正得村史と台帳(写し)をもって、母、叔母、従姉と行き、現家族と伴に取材を待つ。
英語の教授の代りの、会長秘書の方と伴に二時頃おいでる。
過去帳、位牌などと、家系図なども合わせ、旧暦(と言っても、新暦との、月とか年末のズレは考慮に入れてない。数え年のみ)である事から計算して、生まれは1852年(嘉永5)で、1878年(明治11)に亡くなっている。
勝山さんによれば、その年にペストだったかが(もう記憶が曖昧になっている!)が大流行したらしい。
初代の子、長男は龍玄、次男は三折で伴に医者になり、分家(母によれば、井波と坂又らしい)する。
三男の良哉は、華岡青洲のともで修業(正得村史:昭和7年)し、二代目を継ぐも、子はできなかったらしい。
良哉は1855年(安政2)に、33歳で他界。

2007.6.25広辞苑で華岡青洲について調べると、1760−1835とある。
良哉が13才頃に亡くなっていることになり、何才に紀州に修業に出かけたかで会った可能性があるかどうかが分かるのだが、、、
学んだのは、青洲ではなく、その弟子にあたる人からと考えるのが正しいだろう。

俊三は、良哉の生前中かどうか不明だが、養子として貰われたらしい。
親戚の養子の傾向から推定すれば、たぶん龍玄の子(三男?)が養子となったと思われる。
今は地区の4つの神社が合併してできた正得神社(当時は違うはず)に残る1862年(万延2)の奉納額に、願主大谷龍玄とあるのは何か関係があるのかどうか?(地価台帳には、龍玄の名もある)
養母にあたる五百が、藪(?)医者をして、俊三を育てたらしい事になる。
言い伝えによれば、「おあんか」と呼ばれた俊三は、医者の修業中に亡くなったそうだ。
どこで修業していたかは不明。
その後、五百の弟(寛栗)夫婦が子連れで、養子に入ったそうだ。
母の曽祖父にあたる寛栗の子は、6人とも女で、内3人が夭逝した。
母の祖母は、三女の元(明治5年生まれ)で昭和36年まで生き、五百は明治36年(1903)まで生きたから、言い伝えといっても、作り話ではない(可能性が高い)。

こちらでわかる事はそれぐらいだった。
勝山さんは、英語の教授が、本の発音(カタカナ)にオランダ訛りがあるのは何故か、と思ったのは、華岡青洲との関係(蘭学)で理解できると仰っていた。
こちらで想像すれば、五百は、俊三を医者にしようと幼い頃から教育し、本格的にどこかへ修業に出したのだろう。
どういう経緯かは不明(勝山さんは、実はそこが知りたい)だが、朝日印刷の初代小澤重三郎と出会い、翻訳する事になった。
小澤さんは、仕事を貰いに県庁に通い、もう一人の翻訳者の父が県の職員だったので、吉川さんとの接点は分かる。
五百の実家が金沢で、住所が御歩町(おかちまち)、士族(明治に入ってからの話)の子という話が出たとき、かち(徒・歩)以上が士族になり、金沢城に入る事が出きたという話を勝山さんはされた(それ以下は、貫族という足軽とか)。
叔母がかかっている額が勝海舟のものだと、祖母の元が言っていたと話す。
明治12年とあるが、銘は御舟とも海舟とも読めるし、どう書いてあるかも読めない!
これも勝手な推定だが、もし本当なら、俊三が海舟と関係ある所で学んだことがあり、その死を聞いて(悼んで)、書いてくれたのかも、、、
鑑定には出さないほうが楽しみが残って良いのではということになる。
薬箱が残っていると、納屋へ移動。(他用)
「*香」とか山査子とか、薬草名の墨書が一部残っていた。
母や叔母が記憶にある薬研は無くなっているそうだ。

武士だったときの刀などがあった記憶もあるそうだが、戦時中に供出したらしい。
関係ない話のついでに、寛栗が石動の鉄砲町生まれと村史などになっている理由は何か?
武士は貧乏で、下級武士は更に貧乏、それで金のある平民と婚戚関係を結んだ。
跡継ぎでない男は居場所に困るから、居候的に妻の方に世話になる感じになるのではないか?
五百(六女)の姉妹が高波の江守家に嫁いでいたらしいそうだし、砺波地方に幾つか親戚があったのだろう。
寛栗は石動で所帯を持ったのだろう。

増補 英和単語図解」(明治九年二月三日出版)は、国会図書館に一冊所蔵されているそうで、内容のコピーを水曜に貰った。
というのがないか探す。
漆 lacquer varnish レックイーア ブァ ニッシ
アブラカキ Oil painter ヲィル ペーンター (因みに、画カキ Painter ヘーンター に丸をつけ忘れたのだろう)
麻 hemp ヘムプ
医学用語や数学など、理系の単語がかなり載っている。
こんなのもある。
コヒ思病ヤマヒ Lovesick ロブシック
大変な語学力があったとわかる。
筆記体も印刷したのだろうか?
鉄道で iron roadと書いた下に、後から書いたようなrailという記述もあったが、、、

兄のブログに画像が沢山載っています

6月17日(日) 漆は?

昼間は出歩きたい気がする(と言っても、出歩くとは限らない)が、夜になると漆の仕事を余りしてないと悔む事が多い。
昨日は、写真を送る準備とかアルバム整理。給油、買い物。
エンジンがかからなくなっていた草刈機のプラグの煤をペーパーで取り除くとエンジンがかかるようになる。
枝を切ったりした後、家の周りの草刈、、、
今日の午前中は、地区の協同作業で過ぎた。
土砂を上げたりのかなりの肉体労働。
それだけが一日続けば平日よりはキツイだろうとは思う。
午後は水指を研ぎ出したが、眠気に横になる。

目が醒めてから、この前頂いた「旅U」を最後まで読む。
ドイツの食文化、観光、音楽、教育、、、
比較によりより良い道を探る、、、
どこからも相手にされず、八方塞の中、先週の土曜に参加した会だけが漆での生活の可能性を開いてくれるかもしれないと僅かな希望を持たせてくれる。
作品作りも儘ならない状態で、受注や修理をこなすのはかなり難しいのは確かだが、少しでもしていかないと道は開けない。
ラミー紐による作品は間違いなく丈夫だが、見た目にきれいにするのは、縄胎である限りかなり難しい(手間がかかる)。
荷造り用の麻紐に、熱処理による炭化の問題が発生した。
ノーサイの新聞に、簡単に炭を作る方法が載っていた。
半酸欠状態にして加熱するようだ。
麻紐(縄)の上に糊漆や漆塗りで膜ができると、柔らかい素材である荷造り用麻は、中で炭化する場合があるようだ。
電子レンジによっても炭化する可能性があるだろうか?
細い分、巻くのに時間がかかるにしても、ラミー紐(縄)による素地作りに集中すべきだろう。
値段を除けば、熱湯による臭い消しをすれば、良い点ばかりの漆である。
世界の人間生活に役立たない状態は間違っているのではないのか?
一人で孤立していても道は開けない。

6月9日(土) ルーター

パソコンが立ち上がらず、何度も勝手に切れる状態が続く事が多い。
画像を載せるため、ヤフーの方のホームページを開こうとしたら、プロバイダーに接続できない状態。その直前は繋がっていたのに、、、

この前の日曜も、石川支部展に行ったので書こうと思っていたが、パソコンが立ちあがらない状態になり、時間も経って書くことも忘れてしまった。
解説のIさんの親指、見事に弓なりに反りかえっていた。
漆の解説があるなんて知らなかった。Tさんがおいでた。

一度立ちあがったときにメールをDドライブに保存し、写真と伴に外付けHDに保存。
昨日は、仕事の記録を書きながら、教育TVでやっていた’Chant d'adieu’をみていた。
字幕を見ながらだが、日本人は困ったときに笑うとか、葬式前の通夜の様子だったが、面白かった。
何故日本人はすぐ謝るのか、、、理屈のフランス人気質との会話。
疲れて(酔って?)、途中で書き止め、寝てしまった。

きょうは早めに眼科に行くと14番目。
読書で、空間が「虚無の空間」を意味していると知った(再読なのに!)。
社会とそこで生きる個人(感性)の関係のアナロジーとして、虚無の空間と彫刻の関係があるようだ。
自分の人生が逃避的であり、社会と対峙していないから、虚無の空間が理解できないのだろう。
目がぶよぶよしていると前回に続いて言われる。
紫外線対策は十分するようにとの事。

支部展の準備の日にMさんに話しかけられた。
前の所を首になったのを聞いたのだろう。
ちょっとおしゃれな感じがするものを作る。
過去の実績ではなく、実際に作ったものを持って店を回る。
しかし、10万円を越えるものは、よっぽどの人でないと買ってくれないそうだ。
そんな事も頭にあり、商売に役立ちそうな事はないかと考える事も多い。
お椀の内側にラミー紐を巻くのは、浮きやすく難しいのだが、今使ってみている限り、有効。
口の外回りに巻けば補強になるが、太くなり過ぎる。
それで、紐の太さ分、木地を削れば使い難くなる事はないと考える。
彫刻刀で彫るのは面倒だし、轆轤にかけるような設備はない(ドリルでは準備の方が面倒)。
カーマに寄っても、使えそうな道具はない。
ルーターを使えないかと考え、帰宅後、車庫から取り出してみる。
アリ溝ビットを使い、ガイドで位置を固定できないかと試してみたが、上手く行かない。
普通の垂直なビットに換え、ガイドも何とか工夫してある程度の厚みが無理なく残る位置にしてみた。
生協で買った拭き漆の木地は大丈夫だったが、修理に預かっている古い木地は、部分的に壊れてしまった。
厚手の五箇山和紙を貼り、それに合わせて刻苧を盛り、ラミー紐を外から巻けば直す事ができるとは思う。

水指にラミー縄ではなく、ラミー紐を巻くことにし、1本だけ巻く。
夕方、雨の中、富山へ車を走らせる。
越州でアミカル展の会合。
Hさんも入会する事になる。こちらも二回目の出席。
全員必ず発言するように求められるのは、言うことがあまりないのは別にしても、良い事ではある。
それぞれが何をしているか、何を考えて制作しているか、、、
東大と富大の名誉教授であるY先生は、3×6に93歳になるそうだが、いろいろな物質が出来てきて、偶然に生命が誕生したことを示したく、20面体(アミノ酸の数でもあるらしい)にDNAの二重螺旋が入りこみ始める感じに、、、
学問の方はないが、こちらも高2のときにたまたま読んだDNA、漆芸展に初入選のころに読んだ別のY先生の立体図で、最近拘っている縄目表現を考えていなくもない。
3時間以上経っていたが、帰りは運転してもらい帰宅。

5月26日(土)27日(日) 彫刻展・支部展

開会式の招待があったので砺波市美術館へ。
となみ野作家シリーズ第1回「横山豊介彫刻展」
入場料と図録が助かる。
「空間」とは何かと考えるというより、思いながら観ていった。
立体である以上、陳列してある展示室というのとは違う空間が側にあるだろう。
光とか風の中にあるという感じなら分かり易い。
具体的な状況を想像できるのと違い、精神性を表現した感じの世界の空間とは?
意図的に不安定な形にしたというのも感じはよかったが、「道」(1968)が不安というより、未知への意思を感じさせ、自分にとっては一番良かった。
朝靄が消えかける空間かもしれない。
解説では、天神様としてではなく、人間菅原道真を表現したいというような話も聞こえてきた。
生きる事が芸術のテーマなのかもしれない。

会った人との話。
駐車場でSさん、伝統工芸に出していましたか?
印象に残らない作品だったのか、砂田的な作品が見当たらなかったのか?
H先生、招待券ありがとう、一日か二日に見に行く。
Y崎さん、見てきました、すばらしかった。
Y山さんとは挨拶程度。
買い物をしてから帰宅。
午後は給油、叔母の所で話をしてから買い物。
帰宅後、白漆の上塗りの準備、、、
今回は湿度を上げないようにしてみている。

(27日)美術館当番
開館10分ほど前に到着。文化の森の駐車場におく。
Tさんがおいでる。仕事をする場所の事など、、、
面をきちんと作る事の大切さ、木地の手に入れ方を教えてもらえば、、、
今のまま、きちんと仕事を教えてもらう事は大切。
できれば教えてもらった事を思い出しながら、自宅ででもすれば良いのだろうとは思う。
Kさん夫妻。金継ぎはそのうちに、、、
怪我の方はまだまだらしい。
少し離れた所に懐かしい感じの顔?
少しして同時ぐらいに気付く。
中学の同級生だったKさんで、10年振りぐらいか?
隅のある形で張りがあるように麻縄を貼る工夫を10年以上考えてやっと思いついたことを話す。
陶芸を習った事もあったそうだ。
夫がRさんの同級生だったそうだ。
会のKさんとは、あまり腕が良くないものは、一生懸命にすれば、少し遊びをしている感じに仕上がるというような話。
午後は解説が終わって少ししてから美術館を後にする。
文苑堂によって少し時間潰しをしてから、市展へ。
展示を見ているうちに閉館時刻の5時になり、搬出。

5月19日(土)20日(日) 支部展・炭化

17日(木)は夕方から支部展の懇親会。
出席をファックスで送信したので、受付で出席になっているかどうかを確かめる。
席はYさんの隣で、高3の担任だったN先生の奥さんが妹だとのこと。
二次会は審査員の小森先生を囲んで開かれた。
水指に関しては、縄目を消すよう和紙を貼ったりした方が、、、
刷毛の話では、今のは少し柔らかくなっているので、使っている内に根元が漆で固くなって丁度使い良いようになるなどと話されていた。
部屋をあまりきれいにすると、反ってゴミがつく。
少しばかりゴミがあるほうが、ゴミを引っ張ってくれて、作品にはゴミがつかないそうです。
先代の本通しと当代のでは違う事に気付き、問い合わせたりもしたそうです。
乾漆刷毛は下地に使うとの事でした。
漆芸美術館での展覧会があり、忙しいとの事でした。
漆の世界が広まるという意味で、いろんな人がいてもよいとA・Aさんの事も話題に。

今日は招待ハガキ追加分の宛名書き(住所録が無いので、探すのに苦労)や市展の書類 関係。
解説を聞きに美術館に行く。
今まで作品をほとんど見ていなかったので、展示作品をゆっくり見る。
部門によるが、レベルはいろいろ。
新しさはあまり無い感じ。
自分の麻縄貼りが全く評価されないのと同じで、人の新しさが分からないだけかもしれない。
帰宅後、となみ野展の書類関係。

縄胎飾皿を離型して、失敗ばかりに気付く。
500Wの熱処理が近すぎたのか、荷造り用の麻縄が炭化した感じ。
ラミー紐の丈夫さと、多分粗めの麻の脆さ。
熱源により近かった麻布や太めの高台に被害は無い。
受注品での失敗は損失が大きいが、いろいろ勉強にはなる。
石膏原型に直接麻縄を貼るとき、糊漆が邪魔をする。
石膏側は漆分を弱くすべきなのかもしれない(後で洗い流す為に)。
使うのは、ラミー紐にすべき。
乾漆素地を作ってから麻縄を貼るべきなのかもしれない。
麻縄と麻布の丁度よい組み合わせが大切。
ラミー紐は耐震強化と言えよう。

(20日)午前中は塗りの為の準備(研ぎや艶消し)。
午後はまずクロスランドへ市展の香合をもっていく。
書のSさんがおいでた。支部展は娘さんも見たいとの事。
R8へ出て、道路や建物など、かなり変っているのを見たりもして、美術館へ。
昨日怖い感じがした地下の駐車場を避け(前の車も後ろの車も次々に美術館に入っていった)、氷見線横の文化の森の駐車場にとめる。
例年、明快な解説をなさる陶芸のHさんの時は観客が何時も満員になる気がする。
木工のAさんも、作り手の気持ちが出る作品の大切さなどを話される。
KさんやSさんに久し振りに(少なくとも丸二年以上会ってなかった)会う。
「最近は紐に、、、」とSさん。作品の方は見てくれていたようだった。
この前Yさんが、富山にいるなら(東京やニューヨークかもしれないが)、買い上げてくれるかもしれない方が来るかもと言っていたのだが、おいでなかったようだ。
3時からは出品者研究会。昨年と違い、一般の出品者がほとんど来ていなかった。
漆の方だけは3人がおいで、それぞれ作品の意図とか技法の事などを話していた。
年齢から言って、その年齢の時には自分が漆とか刷毛塗りとかに全く関わっていない人達だから、自分だけの殻に閉じこもらない限り、前途有望と言えよう。
指導した方がしっかりしているから、技術を無視する事が無い。
釜はいろいろ細かい決まりごとがあるそうだ。
炉は尺一、釜は9寸幅、口は3寸以上、高さ8寸、重さは3.3キロほど、、、
T宮は、人形以外は、作品名をつけてはいけない(使う人が自分で感じたように名付けるべき)、
人形だけは魂が入っているから、作者が名付けてもよいと仰っていたとか。
少し甘かった鑑査を来年から厳しくする(中央からの審査員に申し訳無い作品は入れない)とか。
終わって、芳名録を見ている人の横から見ていると、知っている人が何人か。兄の名も。
帰宅後、塗りをする。

5月13日(日)14日(月) 透き漆+梨子地漆

このところ早めに帰宅できる日が続き、多めに漆の仕事ができ、パソコンからは遠ざかったまま。
昨日は午前中、塗料滓をドラム缶に片付ける仕事。
帰宅後、風呂に入り、支部展の招待ハガキの宛名書き(の続き)。何故か今年はハガキが不足。
眼科で待っている間の読書、全く頭に入らないし、目から涙が出るようになり、本を閉じる。
目を瞑ってうつらうつら、午前中の疲れが出てきたのだろうが、背凭れのない椅子ではぐらっぐらっとするばかり。
名を呼ぶ声が前の方からするので目をあけると、順番だとの事。
顔を覚えられているとは思っていなかった方だった。
視力検査では、自覚的にだが、右目はかなり見える気がした(0.2ほど)。
左目が0.1よりかなり悪い感じがし、横方向の隙間は見えるが、縦方向になると円に見えてしまう。
矯正視力は普通に見えるのだから、乱視がひどいだけ。
白目がぶよぶよした感じで、季節的に目が痛くなりやすいとか目を擦ったとか、、、(の症状)
変化はないとのこと。
目薬は朝と夕(夜寝る前ではなく)に挿せば良いのだそうだ。

郵便局前のポストに投函し、砺波市美術館へ。
入場料1000円を払って「華麗なる織物文化の精華 −川島織物文化館コレクション展」
初代が城端出身だったとのこと。
正倉院御物の再現をしているというのを何度かテレビで見たことがある。
綴織の犬の質感が展示室に入って目に入ってくる。
漆試作のもあり、高蒔絵とわかるのもあったが、もう一つは盛り上った研ぎ出しの感じ、、、?
明治と平成の「悲母観音」(綴織)など、写真展示も含めてだが、すごいものだ。
絹の糸で、経か緯か忘れたが、どちらかが左撚り、もう一方が右撚り。
二本の撚った糸の解した半分ずつを絡ませて新しい糸を作るのも出ていた。
撚りのできているのと平行に中の細い糸が並んでいた。
(せっかく図録を買ったのに、これらの写真や記載がないようだ。見落としかも?)
2Fで山下さんの染織展。
綴織について聞くと、経の白糸が見えないほど細かく緯糸(各色に染めてある)で画を織り込むのだが、爪の先をヤスリのようにして固定するらしい。
先客の方が一等賞だったのは?と聞き、いろいろ話されていた。
桝目のような区画で少しずつ画がずれている中で、曲線だけが繋がっているのが評価されたのでは?とのこと。
デザインとして決めたので、それを崩すような幅の変化はできないというようなことを話されていた。
他の作品も見ながら、どんな帯が似合うかという事も、その方は質問されたり、、、
閉館5分前というので、他の展示室もさらさら見て、記帳。
城端で近所に住んでいるそうで、Hさんという方だった。
図録を買い、車道の車が行過ぎて、道路を横断し始めると何に躓いたのか、転倒。
右膝と左手甲から少し出血。左手首は今も痛い。

昨晩は乾漆香合の甲面の研ぎ出しをする。
紐巻きの感じが出るように数色を塗り重ねたのだが、なかなか研ぎ出て来ない。
#700では遅すぎ、#500のペーパーを使い、何とか模様が出てきた。
外を地味(溜め塗り)、内を派手(朱塗り)にするつもりだったが、甲面をどうするか?
溜め塗りにすると、研ぎ出し模様はほとんど見えなくなるし、そのまま研ぎ出し模様を見せると派手になってしまう。

今日は水指の身の外側を砥石で研ぎ上げるのをまずする。
これだけかかっても、なかなかきれいな形に研ぎあがらない。
乾漆香合は結局、外全体は溜め塗りにする事にした。
梨子地漆は屈折率の関係で透けが良いという事を思いだし、使ってみる事にした。
ただ乾きが極端に悪いそうなので、今までの透き漆を多めにして、混ぜて使う事にした。
薄く塗ろうと毛先が4oさえないのを使ったが、ムラ塗りになり、平地用に大極上1/3通しを取り出す。
ついでに塗った縄胎杯の紐目には、毛先の短いのは適しているようだった。
結果は明日にならないと分からない。22℃、53%。

(14日)朝18℃、50%でもう乾いていた。下に湿ったスポンジを入れる。
夜は23℃、59%。朝少しだけ息がかかった梨子地漆だけの付けも艶が落ちていたが、爪跡は立った。
湿度計が本当に正しいのか?
香合の甲の色漆による縄目の表情も、何とか透けて見える。
薄く塗った側面の紐目は最初からかなり下の白漆が目立つ。
透き漆に梨子地漆を1/3ほど足すのは無駄ではない気がする。
この梨子地漆(高野漆行の中国産漆)を単独で塗っていないので、正確には分からないが、、、
透き漆といっても、高野漆行の朱合い呂色漆、木地呂漆(日本産)、ウルシオール、ヤナセの朱合い呂色漆、木地呂漆、鳳印の生水漆(水分を少し抜く)、能作の不乾漆などが混ぜてある。
いかにも秘伝がありそうだが、量が減れば中国産を足し、調子が悪くなれば日本産や乾きの悪そうな漆を混ぜているだけ。
透け具合もかなり良いし、流れも良い感じがする。
乾きも良い方だと感じる。

4月22日(日) アミカル

昨日は一日中、漆の作業をしていた。
平日には思うに程遠い作業しかできない。
一日で遅れを取り戻すのは不可能だし、研ぎにしても十分にはできていない。
朱の上塗りはどうしてもしなければならないので、4時頃には塗りの準備にかかる。
前回の塗りで縄の隅に小さい縮みができていたが、上塗り前の縮みは完全には研ぎ消せないので、上塗りに値しないかもしれない。
朱は今日の夜になっても、光っている。

今日は午前中に糊漆を使う作業。
出品向けではないもの。
午後から富山市へ小雨の中を出発。
地図に従ったつもりが一度迷いかける。
アトリエとして建てているという二階建てに何とかたどり着く。
11月末に銀座で開くAMICAL展に関する会合。
92歳の元学長は、ペースメーカーをつけたとはいえ、元気に歩いて二階まで来られた。
少しのストレスが健康の為には必要とのこと。
初参加の人が自分以外にもいた。
91歳の羊蹄会の先輩にあたる方は入院中との事。
友情というか友愛というもの(amicalはamiの派生語だろう)だけで繋がっているというだけあって多彩な分野、人物。
色んな会派とか分野が混ざっていても、自分の表現を出すしかないというのが、今までやってきて感じる事だ。
乾漆の仕事は時間がかかるので、一つを除いてどうしても楽な道に走ってしまうが、、、
今はその一つさえ危うい状態。
人生の岐路かもしれない。

3月31日(土) 食器

今まで地震のニュースを見ても思いつきもしなかったが、輪島での事を知らせてもらい、某さんの画像掲示板で建物の壁の崩れかけの様子や(多分)道路にガラス瓶が割れて散乱しているのを見て、翌日(28日)に食器について思いついた。
ガラスや陶磁器の食器は、食事の時は楽しみを与えてくれるかもしれないが、いざ大地震になると割れて凶器になってしまう。
木製の漆器は、値段は高くても、陶器より壊れ難いし、壊れても凶器になることは無い。
更に手間のかかる乾漆や縄胎の食器は、更に壊れ難いし、凶器にはならない。
地震の多い日本では、漆の食器をもっと使うべきではないかと思う。
「うるしの話」(岩波新書)の最後の方に「ボディの改善こそ勇敢に全力をあげてメスを下すべきである。・・・」(p210)とある。
自分勝手な思いかもしれないが、ラミー紐の有効な利用こそが新しいボディに繋がる気がする。

この前眼科に行った時、来週は学会で休診とあったので、雑用を済ませてから行く。
9時前に入ったのにもう19番目。
やっと「うるしの話」の再読が終わり、また最初の方を読み始めていると、Dさんが声をかけてくる。
検診で眼底から出血があるといわれたので来たのだそうだ。
診察では、学会で休みと書いてあったから1週間早く来たことを話す。
眼球の移植の話も出るらしいが、神経が複雑なので、信じられないと先生は言っていた。
強い方の目薬は、屯用で、かゆい時だけ使うようにとの事。
銀行に寄り、食品を買い、日経PCの五月号を買い、帰宅後、タイヤ交換。
昼食関係で1時間半以上が過ぎ、買った本を読みながら寝転ぶ。
4時頃からやっと漆の仕事。
急いでいない物から作業をするという悪い癖があるので、今日はまず水指に取りかかる。
次に半ば趣味みたいな香合。棗同様、合せの線が目立たない水準が求められるが、なかなか出来ない。
技術的欠陥は、素地そのものの仕事のレベルを示すだろうし、漆の信用を無くすもとになる。

3月24日(土) 新しい立ち上がりの作り方の結果

22日(木)に香合に蓋を被せてみると、キツク嵌らないぐらい。
身の合口端に残る幅は、見た目に十分なのに、無理に押し込んでやっと嵌るだけ。
五箇山和紙の壁は、動いている感じはないし、問題は無いはず。
和紙を剥ぐると、立ち上がりのすぐ下を除いて、簡単に剥がれてきた。
細いラミー紐に貼り直すとしても、必要なので壁用に高野のカヤ布を貼る。
今日24日、どう見ても蓋が嵌らない理由が納得できないので、中のラミー紐を空研ぎしてみる。
何とか嵌るようになったが、被せた状態で蓋が外に出気味なのは、その内の立ち上がりが外に出過ぎている事になるので、そこを研いで減らす。
そういう調整をして、紐目に下地を薄く付ける。
厚手の五箇山和紙の二つ折りは、高さには不向きだが、緩い曲線には対応できるようだ。
3段ずつ順に積み重ねる方法もあるだろうし、細いラミー紐と組み合わせれば、良い方法かもしれない。

右半分に下地をつけた状態

朱漆と白漆を練る必要があるとずっと考えていたので、それを実行。
する事が沢山ありすぎ、逆に何もしないことが続いている。
21日受注の為の石膏原型がきれいにできていないので、修正の為の定規をアルミ片で作り、削る。
湯来楽へ気分転換の為行くが、風邪が治りきっていないので、すぐ息切れがした。
日経PC21の5月号を探したが、まだ入荷していないようだった。
買い物をしてからレジに並ぶと、こんにちはという声。
きたじまさんだった。金継ぎの事を聞かれる。
漆継ぎまではしたことがあるので、その後蒔絵のように継ぎ跡を仕上げるだけと話す。
「うるしの話」(岩波新書)を読み直しているが、本当にいろいろ書いてある。
新日曜美術館でMUROSE先生が何度も読み直し、その都度発見があるというような事を語っておられたので、読み直し始めたのだが、塗り立て、乾漆、木地、、、
今まで折り目をつけていたのが数カ所だったのに、随分増えてしまった。
漆に関心のある人の必読書と言える。

3月21日(水) 立ち上がりの作り方

昨日まで二週間以上続いた戻り冬の積雪も屋根から落ちたのを僅かに残すだけになった。
年に4回だけある予定の祭日の休日だったが、相変わらずの雑用、、、
茶会のお礼をやっと書き上げ、ポストに。
そのまま好天のもと、自転車で走る。
Sさんの縄胎杯の形が決まったか聞きに行くも、まだ見においでないとの事(もう一ヶ月以上か?)。
別の人から電話があり、後から家に話をしに来るとの事。
帰宅し、昼食兼弁当のおかずを作り、昼食。
Nさんという方で、縄胎杯を見せてもらっていたので、縄目が見える飾皿がほしいとの事。
紐や縄を見せたりしたら、木綿のがよいとの事だったが、自分の意に合わないので、理由を話す。
見た目にはきれいに出来るが、漆を吸うと脆くなる。
麻だと落しても壊れないと、縄胎杯の制作途中のを落して見せたりもした。
話は飛ぶが、木綿だと漆を吸いこむから漆の固まりみたいものだと言っている新興宗教の教祖のような「漆芸作家」がいるらしいが、漆だけでその固まりの大きさ(太さ)までもっていくとしたらどれだけかかるか想像しただけで、その出鱈目さが分かる。

香合の立ち上がりの作り方を考えた。
微妙な曲線に沿う形の紙型を厚紙で作るのは無理だと考えた。
厚手の五箇山和紙を使ってみようと思った。
取り出してみると、二つ折りにした方が厚みが増し、安定する感じがした。
型のつもりでも、後から剥がす時、いつも糊でくっ付いたままになるところが出来てしまう。
それにも対応できるよう、折った内側にも、貼りつける側にも糊漆を使い、残っても害にならないようにした。
端から上は4o程度、貼る部分は内脇の高さほど。
夜、和紙はそんなに動いていないで(貼ったままの感じで)、乾いているようだった。
それを型に中の太さのラミー紐を端から上へ3段(3周)巻く。
もともとその程度の高さで良いと思ったが、3周目になると和紙自体が貼る力によって動くので、それ以上は無理。
立ち上がりの作り方の新しい方法の結果はどうなるか?

今日受けた注文に対応するため、長い麻縄を作ってみた。
長さ50メートルほどに荷造り用の麻縄を切り、同じ向きに撚りを500回あまりいれた。
端同士を同じ棒の所にはめ、撚りをいれた中央にハンドドリルをもっていく。
300回余り逆方向に撚りを入れ、絡ませて締まり気味の縄にした。
二本作ったが、かなり疲れてしまう。
ラミー紐だとすると、撚りの回数がかなり必要だろうから、挑戦してみる気にはならない。

3月3日(土)金沢 4日(日)茶会

曇り勝ちだったが、洗濯物を外に干して、内山経由で金沢に走る。
高野漆行に車を止めさせてもらい、エムザまで歩く。
Mさんの乾漆の「芽吹く」は、形が良かった。
展覧会的には大きい方が良いのかもしれないが、稜を感じない小さい方が好きな感じがした。
Tさんのは、形的に側面の中央あたりが痩せて見えた(実際は直線なのだが)。
Mさんの干菓子盆は角のところで、上へ向うのではなく、水平方向に近くなるように曲線の処理がなされていて、痩せては見えなかった。
工芸の作品が、ただ上に向うのではなく、最後に向きを変えるのは、単なる格好つけではなく、柔らかさを出すためだと気付いた。
私の場合、蒔絵に関しては、素人に近いのだが、段段上達しているのだから、今後もそうなっていってほしいと感じた。
蒔絵でも、卵殻でも、ぼかしの感じが出れば、見る人が安らぎを感じるのではないかと感じた。
胴擦りに関しては、傷も目立たず、努力の甲斐があった。
Hさんの色漆に金粉で立体感を出しているのは、日展的で良かった。
あれこれとゴチャゴチャするのではなく、最小限の加色で雰囲気を出す事が大切のようだ。

銀行のキャッシュコーナーの関係で、大和まで行くはめになってしまった。
ついでに尾山神社に寄り、紅梅と白梅を見、写真に撮る。
梨地漆のことを聞くと、雌黄を水に溶いて漆に混ぜるので、粘っぽくなり、黄色っぽくなるそうだ。
乾きは遅い。流れに関しては、よく分からないような、、、?
縄胎杯の作りかけのから、最初に作ったのまで、数個をもっていき、見てもらう。
面白いとの事だったが、螺旋状に後から麻縄を巻いたのは、口辺りでは太すぎる感じとのこと。
途中から螺旋状に巻くのは、良いかもしれないという感じがした。
いろんなジャンルの人がいるグループ展が一番良いのでは、とのこと。
生漆、梨地漆、麻布2種などを買う。
芹川で買い物、500キロをスタッドレスタイヤで越える走行ができていたが、給油。
注文を受けている縄胎杯の件は、まだはっきりしないとのこと。店番に妹がいた。
煮物を作りながら昼食、色々の整理、届いたアパートの契約関係の書類への対応、、、
ほとんど漆の仕事ができないまま、セレモニーセンターへのバスの所へ。
数年前に父、ほんの少し前に祖父を亡くした、20代の僧侶が主導していた。
バスの送迎は無駄が無いのか、8時過ぎには帰宅できた。
途中から麻縄を螺旋状に貼るのは、昨年からの入り隅のある形に張りがあるように貼る方法が使えるので、早速試してみた。
これは何とかなりそうな感じ。

4日(日)午前中は雑用の後、漆の作業を1時間以上。
昼過ぎ駅まで送ってもらい、列車で富山まで。
眩すぎる中を歩いて松川方向へ。自分より年配者より歩くのが遅かった。
前にインターネットで場所を探してあったので、すぐに建物は分かった。
受け付けてもらうが、こちらが用があるのが、M宮さんなので言うと、2Fとのこと。
何とか顔を合わすことができ、すぐに入ってくれという事になる。
次客にといわれたが、全く作法を知らないので、裏方を手伝っていたTさんの横にしてもらう。
主菓子を食べるとき、乾漆食籠の作者が来ているという話を始められる。
黒二点、大広間で視線が集まる。
お茶をしている者が工芸を支えていかないといけないとも仰っても下さった。
蓋の裏に、鮮やかな朱でH内宗shinさんによるとの花押がえがかれていた。
箱の裏書もしてもらったと皆に話しておられた。
次の部屋での干菓子(薄茶)、それからお礼を言おうとまた最初の方に戻る。
茶を立てていたTさんに相手をしてもらっている内に、その時やっていた茶会が終わり、おいでる。
これからは乾漆食籠を使うつもりとのこと。
Tさんとまた漆のことなどを話した。
備中漆フォーラムの冊子にあった白漆が古くなると良くなるといのは、Tさんも実感しているそうだ。
ラミー糸の事も話す(炉縁の外回りの補強にも使えるが、斜めの継ぎ目部分はどうか分からない)。
(帰りの列車内で思いついた事は、溝か穴をあけ、ラミー紐で締め上げると良いかもしれない)
まだ明るかったので城址公園に行き、郷土博物館に初めて入る。
もう一度行きたいとは思わない展示だった。
駅に戻ると、丁度金沢方面のが出発する頃だった。
間に合わないので、CICに行く。またたび酒を買う。
駅に戻ってもまだ時間があったので、書店に入る。
面白そうな本が多くあったが、何せ本を読まないに近い生活なので、結局買わず。
5時10分ぐらいに福岡につき、迎えに来てもらう。
今までなら歩いたか、もともと自転車で往復するかのどちらかだろうが、疲れが抜けない。
予想以上に早めに帰れたので、水指の高台を麻紐で作る。

2月25日(日) 風呂吹き大根

家事関係、役関係(野ねずみ防除の薬なので、手渡し、留守宅は郵便受けに―ビニール袋に封をして)、書類関係(ファイルしてなかったのも片付ける)、昼食関係、、、
2:45pm頃からやっと漆の仕事に取りかかる。
乾漆盛器の水研ぎが主な作業。
リグロインで薄めた生漆を吸わせる。

縄胎の素地を作るとき、糊漆で何回か縄目を埋めてかかる方が良いか、縄に生漆がより多く吸いこまれるように早めに吸わせる作業を交ぜた方が良いか?
漆が余りに吸いこまれると、硬くなり、脆くなる。
巻くときに、一応糊漆の膜ができているから、早めに吸わせても問題無いかもしれない。
糊漆を重ねる理由の一つに、接着力だけではなく、隙間や穴を埋めていく働きがある。

麻布と木地の関係と、麻布と麻縄(紐)の関係はかなり違う。
木地は動くし、ひび割れる事もある。漆と熱に対する反応も違う。
麻縄(紐)は、麻布にそういう刺激を与える事は無い。
木地の補強には、麻紐が合うかどうか?

作業中に聞いていたラジオ(文化放送系)で、納得できない料理名というのをやっていた。
「風呂吹き大根」というのも出ていた。
その名のできた理由として、大根の煮汁を漆風呂に吹きつけ、漆を乾くようにし、余った大根を料理に使う事からきているという。
「うるしの話」(岩波新書)には、酒を吹きつけるというのは載っている。
アルコールが乾かない漆を乾かすらしい。
大根はどうなのか?

2月17日(土) 晴れている間に 18日(日)

資源ゴミ出し、洗濯干し、台所片付け、米研ぎをして9:15am頃出発。
スタンドで給油し、津幡経由で輪島へ向う。
久し振りの長時間の運転でだるかったが、丁度12時頃に着く。
市街地で知らない道を行ってみたので、スーパーには行けず、そのまま美術館に行く。
友の会の二年継続(2000円)、図録(2500円)、するとshuppinshaの方ですか、、、
今年は出してない、去年は出していましたが、、、
塗りだけの乾漆は非常に少ない。
明るめの緑を使った作品が印象的だった。
今の自分には考えられないくらい、緻密な仕事をしているのも目立った。
今自分がしようとしている事は、良く言えば独自の世界、普通に言えば外道なんだろう。
ラミー紐・縄が無いのは漆の道に反すると思っているのだから。
小学生の卒業制作のMY椀、沈金技法のを見る。
眼の関係で、はっきりした図柄でないと目立たない。
丹頂の舞に挑戦したのはすごいと感じだ。
1:10pm頃美術館を出、橋久商店を探す。
ぐるぐる回ってもどこにも見覚えのある道路がない。
そもそも住吉神社が見つからない。
もう1本海側かと行ってみてやっと神社や郵便局がある。
しかし、店が分からない。数年前、中学の同級生の旅行で来た民宿があり、そこでUターン。
ゆっくり戻ると、やっと見つかる。
何年か振り、青砥や加工砥石、この前同様もう無い。
篩(メッシュ#140)も大きいし、値段も高いので買わず。
棕櫚のブラシや砥石などを買う。
昼食用にスーパーに寄り、輪島を出たのは1:55pm頃。
羽咋から氷見に抜け、大野で右折、海老坂には行かず、五十里に抜ける。
福岡のタピスに着いたのは4:05pm。買い物。
帰宅後少し整理してから、糊漆を使う作業。
衣服の破れを縫い、9pmから食事の準備。
30分後に夕食という生活。

(18日)
午前中は、セレモニーホールへ。庄川沿いに走ると20分もかからない。
帰宅後、アンケートの依頼(認知症の介護)やら市の交通保険などに対応。
昼食関係、少々の外出(まだ見本の縄胎杯を見に来てくれないそうだ)。
空研ぎなどをして、下地用の刷毛の切り出し直しなど。
明るいとどうも仕事に集中できない(ふらふら出歩きたい感じ)。
水がきれいな間に錆を合わせる。
それから形をきちんとしたものに近づけるため水研ぎ。
そういう準備作業が終わってから、錆付け、糊漆の仕事。
今日も大して漆の仕事ができなかった。

2月10日(土)11日(日) 麻布による補強が必須

長い残業があると、疲れが抜けきらず、何もしない日が続く。
今週の漆の方は、ひどい状態だった。何もしないに等しい。
言い訳に聞こえるかもしれないが、2年前まで帰宅後していた漆の時間が、今は残業で過ぎてしまっている。
収入のための今の生活がこのまま続くとすれば、その終わりは漆の終わりでもある。

火曜の夜9:45頃電話。
「表千家でお茶をしているMと申しますが、砂田先・…」
何の事かと思っていると、乾漆食籠を買ってくださった寺の方だった。
茶会に食籠を使うので、制作者として紹介したい…
作法を知らない者ですから、何をすれば良いか、分かる方は教えてください。

今日は少し遅くなったが、眼科。
今使っている眼鏡が見え難い感じがしていたが、右目で0.8、左目で0.6だそうだ。
視力検査の眼科のレンズでは、多分両眼とも1.0ぐらいだろう。
最近よく頭がぶつかり、たんこぶができる事を話す。
昨日は左目の眼鏡に吊ってある物がぶつかった。
瞼も腫れている感じだし、手も膨らんだり、割れたりしているのを見せる。
内科との連携でつける薬ももらう。目薬も2種類になる。
カーマで0.8oのドリル刃を固定できるものを探し、買う。
サンキューで買い物をし、帰宅後、昼食作り。
縄胎杯の中塗り前のを持っていき、注文主のSさんに希望する形を選んでもらうよう頼む。
縄を螺旋状に巻いたのの感想も聞く。
自分でも感じていた通り、太すぎるとの事。
前にあげた縄胎コップで、泡が出てくるし、ジィーと音がするというので、修理に預かる。
家でポットのお湯を入れても、水を入れても音がしない。
電話すると、熱湯を入れるとそうなるというのでやってみると、確かに泡が出てきた。
下の方が白っぽいので、下地の砥粉でも出たのかと不安になったが、砥石で研いでみると、粉だった。
下から黒塗りが顔を出した。
二種類の、荷造り用の麻紐を巻き重ねた作りで大丈夫かと思っていたのだが、底の中央の所で破れたようだった。
リグロインで薄めた生漆を吸わせておいたが、麻布は補強に必須のようだ。

(11日)漆をする時間が不足する上に何故か家事関係が増えて尚時間が無くなる。
お茶をしている義姉に聞きに行くと、詳しい方に電話してくれる。
お祝い、扇子、懐紙、、、一日かかるらしい。
週休二日で、外出するのはどちらか一日(数時間以内)になるように努めている。
糊漆や錆の作業をまとめてしようと、その準備作業をいろいろしているうちに暗くなってきてしまった。

張りのあるように麻縄の模様を貼る作業(乾漆盛器)で、残りの4本を貼ってみた。
7m弱の3本撚りのラミー紐で縄を作り、先端にエナメル線をつけて、必要個所に縄を渡す。
縄になって長さが3メートルほどになったのの、一番最後まで引っ張っていって、必要な長さで切る。
そのように4本渡すと、結局、先端は最初と同じ状態に保てる。
固定する為の、入り隅のラミー紐を最初から準備しておけば楽だったのだろうが、思いつかず、結局、ぐるりと回る感じになるよう1ヶ所ずつ、効率の悪い作業を続けざるを得なかった。
ほとんど固定状態になってしまい、糊漆を縄の下に渡せるか心配だったが、何とかなった。
10数年考えてやっと思いついた方法。
やってみると今日のように考え不足が出てくる。

2月3日(土)4日(日) 失芸から漆芸へ

少し冷え込んで積雪少々。
朝から晴れ渡り、戸外に洗濯干し。台所の片付け。

銀行、カーマ(組み立て式の棚、薄いアクリル板)、サンキューと回り、帰宅しグリルで焼き魚など。
刷毛などをしまうつもりの棚を組み立て始める。
3時間ほどかかりやっと完成。
置き場所が無い!
昼過ぎ、委託になってしまっている郵便配達で1通。知らない人。
アミカル展の関係だった。
通信欄というのがあるので、結局、新入会員という立場ですが、漆で生計を立てる事ができず、1年ほど前より勤め始めた関係で総会に出席できません、参加できるのは土曜日と日曜の日中だけですという意味の事を書くしかない。
漆芸作家のはずが、失芸錯家になってしまった。
そのうち、gがmに変わる宿命?
我ながらその割にはのんびりしている。
カーマで売っている木を見て、模様を考える以前に、根元からの成長のエネルギーを感じるべきだと思った。
みちのくのしのぶもじずりたれゆえにみだれそめにしわれならなくに、というかんじ。

(4日)する事が沢山あるのに、時間は何時の間にか経っていく。
砥石による水研ぎできちんと研ぎ上げる。
麻縄の模様を実際に貼る。
できれば昨日組み立てた引出しが4段の棚をどこかに置く。
午前から昼過ぎは研ぎで、蓋と身の合わせ具合の調整、面を作ることなど。
朝寝転んでいる内に思いついた模様(ノートに3種類書いてみて)の内の一つを、研ぎ上げた盛器の側面に鉛筆で書いて感じを見た。
裏返して感じを見たりしておく。
キャスター付きの棚があった所に棚を置き、順に窓がわに移動しただけ。
高野さんで貰った御膳を轆轤の上に置き、場所を空ける(部屋にただ置いてあっただけのを)。
以前思いついた斜めに彫り込むことで突然表れる感じを防ぐ方法も試す準備。
細いラミー紐をその倍の太さの縄にしたのと、一番太いのをその倍にしたのを作る。
盛器の方は、縄が細い分、締め具合の影響を受け易く、思っていた以上に難しかった。
縄胎杯の方は、デコボコした形に貼る関係上、緩めの縄にしたが、太い分貼り難かった。
どの程度の太さが良いか、いろいろやってみるしかない。
人によって持ち方が変るかもしれないし、指の太さも違う。
自分の手に合わせて、貼る位置を鉛筆で書いてかかった。
その他にも作業はしたが、今日は麻縄を張るように貼るのが目標だった。
漆芸と呼ぶに値する作品へと繋がっていけば良いのだが、、、

1月28日(日) 山中温泉

昨日3時半頃にマイクロバスで出発。
ノーsaiの研修会というのに初参加(もう一つの会のと重なったが、、、)。
着いた頃には薄暗く、良く見えなかった。山中へは初めて。
宴会やら何やらと6時間ほど続いたはず。胃薬でもっただけという感じ。
今朝も他の人は飲み出したが、一人帰宅後する事(漆)があると飲まず。
晴れたりもして、下の清流がよく見えた。
材木関係の人が、細く見えても、岩盤の上に生えているし、枝も垂れ気味になっているのは老木と話す。
山中の木は真っ直ぐ伸びているし、良いとの事。
環境からも人間国宝が生まれるのを支えているのかもしれない。
帰り、すぐ近くの菅原神社(栢野)の大杉も見る。デジカメをもっていけば良かった、、、
修行時代にお椀を塗る競争をしてもどうしても勝てなかった。
兄弟子がゴミをつけないように塗っているから(ゴミを揚げる手間が要らない)速いのだと気付いた。
初めて坂下先生の所に行った頃に聞いた話を思い出した。
お土産などを配って、空研ぎなど。
休日にしか糊漆を作れないと思い、作る。
桶が空になるように出した生漆が多過ぎる気がして、未使用の漆刷毛の木部に生漆を吸わせたりもする。
実際の作業は余りしないまま終わってしまう。

1月13日(土)14日(日) 迷惑メール対策 & 麻縄作り

Je ne suis pas bien dormi cette nuit.
疲れを取るために酒も飲まずに寝たのに酒の覚醒作用のような状態になり、動悸も感じられた。
何時も分からないと思っている空間を掴み取る、、、
出土土器が展示室で存在感を示すのとどこか繋がるのだろうか。
その空間は、現実だと人が感じている空間(科学的)だろうか、抽象的な空間(精神的)だろうか?
「美」を追求する事が芸術だと言われる。
絵を描くことが好きな子がそのまま絵を描き続けると芸術家になるのだろうか?
美を追求する事は、工芸とか職人的拘り、科学のミクロの世界とか、そんな感じがする。
自然であれ、人造物であれ、外にあるものに美を感じ(感動し)、それを表現したい(強調表現)。
そこから美を追求したいという精神世界に迷い込んだとき、職人的な技術の水準から自由になれるのだろうか?
人の技から出発し、技法という水準から自由になったのが芸術家だろうか?
純粋に美を追求するする精神世界を生きる人、人間のレベルを超えようとする人。
もう一つの芸術家のタイプは、社会や自然の中で孤独感を感じ、自分が生きるための支えとしての表現をする人。
あくまで人間的であろうとする人。
自分が生きていることを示すために表現する。
社会に負けてなんかいられるかと、多分科学的(物理的)空間を掴み取りたいというのだろうか?
すると空間は社会的意味(人間)を帯びたものといえることになるのだろうか?
話は飛んで、現実の世界では、純粋に美を追求するはずの人が、芸術院会員とかになろうと人間の作った世界に拘り続ける。言葉の上だけの芸術か?

残業続きの疲れか、午前中は少し外出したのみ。
メール受信を4日振りぐらいにするも、調子が悪い。
迷惑メールの受信拒否をプロバイダー段階でしようかとも思ったが、画像付きが迷惑メールと判断されるようで、1%の必要なのも削除されてしまう感じ。
前もって知れせてもらい、そのときだけ受信拒否を解除する方法もあるかもしれない。
太いラミー紐が少なくなってきた事もあり、FAX送信文書で注文書。
印刷し、送信した。これが自分の漆の道だと思う。
4時過ぎからやっと漆の仕事を開始。
研ぎ続けたが、面を作り上げるのもなかなかできない。
刻苧、錆付けを終えたとき、8時50分が過ぎていた。

(14日)
迷惑メールに時間を取られるのが勿体無いから、プロバイダー段階で削除されるようにした。
画像を送る人には、前もって知らせてもらい、設定を一時的に変更する予定。
イラストレーターで同心円を作図(この前、本の立ち読みでやり方を知ったので)。
中心線を10度毎にコピーして作図したが、同心円の中心とずれていた(印刷して、定規で測ってわかる)。
印刷もA4一枚分の範囲しかできない。どうすればもっと大きく印刷できるか?
漆の方は空研ぎなど、準備をしただけというに近い。錆を少々。
今までとは少し違うとまでは言えないが、撚りを中間で合わせるのを少ない回数でする方法を試してみた。
撚ってあるラミー紐を同じ向きに更に撚りこみ、かなり締め上げ、それを中間で合わせ、縄にする。
今までの半分の本数(糸の)の縄ができた。
園芸用の太いのは、緩すぎたので、同じ方法で締めると、丸みを帯びた少し太い縄になった。
高台に使えそう。

1月6日(土)8日(月) 漆三昧?

休日の前夜は大抵飲み、疲れた感じの朝をむかえるのに、今朝はそうではなかった割りに早起きはできなかった。
洗濯を干して8:40頃かと思っていたのに、9:15頃。
準備をして眼科に行くと、便利な駐車場が空いていて、受付も21番目。
再読となる「時代の痕跡」、芸術が神の時代、共同体があった社会、それが失われた社会で変質していった。
中心喪失の社会は、抗すべき闇、怪物、狂気、死、、、
生きるために自我の怪物を育てねばならない、写実の対象の現実を超え、人間の内部の闇へと眼は行く。
在るということは無いということを踏まえてしかありえない、、、虚無に包まれてしかものは在りえない、、、
意味の不信、残るのは感覚と行動、、、
闇は、それに抗う人間の命の源泉、その先は虚無、、、
芸術が本来もっている闇との関わり、、、社会を超えた自由なまなざし、、、人間であるかぎりは持ちつづけたい、、、
読み直しても、芸術的に生きていない限り、理解は届かない感じがする。
検診の方は、両目とも外側だけがよく充血することを言うと、加齢で白目が弛み血管が破れやすくなっているだけだそうだ。
視野検査のことを聞くと、すぐに光を感じないような遅さも加味しているとか。半透明でも見えていることになるらしい。
眼鏡は特殊な波長の紫外線をカットするようになっているらしい。
早めに終わったので、まずカーマへ寄る。結局、彫刻刀用のキングの砥石を買う。サンキューで食品。
午後から、叔母に年末に約束していた60年余り前の手紙のコピーを持って行く。
縄胎杯を2個注文してくれているSさんという方がいた。
改良を開始する水指も持っていき、感想を聞くと、模様は良いとのこと(従姉)。
縄胎杯の形を聞くと、普通の形で良いそうだ。
掛かりの高さが1oも無いくらいだったのを高くするため、錆だと弱い気がして、細いラミー紐を貼ることにした。
幅も0.5mm無い所に貼るのは不可能だから、外側に壁となるものを作ることにした。
両面テープの間に挟まれている接着防止用の厚紙を壁の支えとして使う。
(1.7)掛かりに接着していたテープの糊が剥がれず、刃物の先でやっと取り除く事ができた。1時間余り。
ラミー紐の高さだけで、斜めにしても蓋が安定するようになった。

(1.8)割合長く続いた漆とつきあえる日々も終わる。
縄胎杯の素地を1個ずつ作ったり、、、低温で漆の乾きは悪いが、、、
修理に預かっている漆椀をただ塗り直すのでは詰らないし、自分の漆理論(?)に合わない。
端の外回りにラミー紐で3周巻き、補強。
内に熱いお汁を入れると、漆膜と木地の膨張率の差で何時かは浮いてくるし、木地に亀裂が走る可能性は残る。
内全体にラミー紐を巻く(貼る)と耐久性が向上するのは分かるが、手間がかかりすぎる。
螺旋状に細い紐を貼ってみたが、どの程度の効果があるか不明。その上に麻布を貼ればかなり強くなるが、、、?
自分の商品としての木の椀にも使えることを考えているところ。
改作を始めた水指も、つまみに細いラミー紐を巻けば持ち易くなると気付いたり、付け根にも巻けば、接着の補強になると気付いたり、、、
作りながら考えるタイプなので、改変する度に重くなっていく。
最初からきちんと計画を立て、それで完成できるなら、軽くて丈夫なものになるだろうに、、、
昨日は修理・受託の表や年度毎の全集計表を作ったりもしていた。
「麻布と麻紐による漆工房」という新しいフォルダを作り、関連のブックや文章を纏めた。

1月1日(月) 麻布と麻紐による漆工房 (2日)

昨年末はエクセルで「麻布と麻紐による漆工房」の受注表や販売実績表のテンプレートになるものを作っていた。
講習の内容はほとんど忘れたといえる状態なので、関数の使い方に苦労する。
受注表(縄胎杯と縄胎椀)の方は、忘れないためだから、実際のを作り、それから数値などを削除し、テンプレートとして別に保存した。
コードで品名を表示し、請求額を自動計算させ(納品日に記入が入ったときのみ)、入金済みを自動的に「○」表示するようにし、その結果入金済みの行全体を水色に塗りつぶし、納期遅れは注意が出る、、、
販売実績表の方は、販売法に応じて価格が表示されるようにするのに苦労する。
index関数を使うのは思いついたが、記憶が薄れていたので、上手く行かなかった。
「できる EXCEL 関数編」を見直したりして、match関数が不要だと気付き、やっとできた。
こちらの方は実績がほとんどないから、今後使う機会があればとの期待が主。
昨日はNホールでたまたまT君と会い、細々とは漆を続けていると話す。
市は違っても、中学の方が距離的に近かった所為もあろうが、会う機会はある。

2007年になり、昨年同様、漆の時間が取れない気がするので、昼下がりから仕事を始める。
O先生を見習い、まず塗師屋刀の研ぎを始める。
大工のY君に裏刃をまず真っ平に研ぎ上げるべき事を習ってから、少しは研げるようになった。
麻縄の模様を考えるが、模様が不要な形である事が大事だともいえる。
頭が動かないときは、体を動かす。
縄胎杯の素地作りをし、その後、糊漆を使う作業を続けた。
表は作っても、品物自体が存在しないものが多いし、価格も当然存在しようがない。
今年はどうなるだろうか。

(2日)
この4日間、4.5合、3合、4.5合、4.5合と飲み続けてきたので、今日は断酒。
肉体労働になって内臓関係が改善したのか、この3年ほど、1合で二日酔いになることが多かったのが、二ヶ月ほど前から二日酔いになりにくくなった。
この4日間、一度も胃薬のお世話になっていない。
皮膚とか目が、これまで出会った事もないほど強いシンナーに痛めつけられるし、腰も運動不足からではなく、過労から痛むなど、時間・体力が無くなる他にも悪い面もある。

販売実績表は、2005年と2006年の表からピボットテーブルで集計してみる。
それを統合しようとしても、全く駄目で、別の所に値だけコピーし、それを統合しようともしてみた。
項目が普通の表のようにならないので、それも駄目だった。商品別・月別の集計できる表は作ってあったが、合計数をどう集めるか、全く思いつかなかった。
ピボットテーブルをその表のすぐ下に作り、それをコピーし、貼り付ける事を思いついた。
そうしてできた商品別・月別集計表を全体を集計するシートで統合するという考え。
統合についてもかなり忘れていたが、何度かやり直すとできた。

石膏で作り、割り型にした縄胎杯の型は、あまり上手くいかなかった。
中心の、最初に抜く棒部分をもっと細くし、抜けやすくしておくべきだったのだろう。
クッションのようになり、抜けやすい余裕の隙間を作るビニール紐を巻かなかった所為で、ラミー紐の巻きがきつくなり、石膏が締めつけられた風になったのかもしれない。
ふわふわしなかった分、ラミー紐の巻きはいつもより整ったものになったが、、、
今日の仕事はあまり先に進む感じのものにはならなかった。

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